2021.4.16

【連載・聖徳太子1400年遠忌】<上>信仰 脈々と受け継がれ

先進的な文化や技術、仏教を取り入れ、国の礎を築いた聖徳太子(574~622年)。時代を超えて敬われ、1400年遠忌を迎えた今年も、ゆかりの地では法要やイベントが計画されている。脈々と受け継がれている太子の精神とは何か。その一端を紹介する。

■ 「世界最古の企業」
厨子にまつられた太子像を拝む刀根会長(大阪市天王寺区で)

聖徳太子が建立した四天王寺(大阪市)の近くに本社を構える金剛組。社屋の一室で刀根健一会長(66)は、厨子ずしのろうそくに火をともし、静かに手を合わせた。その先に、太子像が柔和な表情を見せている。

神社仏閣の建築や修理を手がける金剛組は、四天王寺を建てるため、太子が百済から招いた工匠を創業者とする。それ以来1400年以上続く、「世界最古の企業」で知られる。

太子像を納めた厨子は本社など4か所にあり、約100人の社員は月2回の参拝を欠かさない。成約前の契約書を供え、商談の成功を祈願する営業担当もいる。

携わるのは、全て信仰に関わる建物ばかり。だからこそ刀根会長は、こう強調する。「創業から受け継ぐお太子様の精神を念頭に置くことで、お客様に寄り添った仕事ができる」。太子信仰は今も息づいている。

■ 平安期に急拡大

推古天皇(554~628年)の摂政となり、仏教を広めた聖徳太子に対する信仰は、没後すぐに芽生えた。「日本書紀」には、「一度に10人の訴えを聞いた」と記され、超人的な人物として描かれる。

太子信仰は、平安時代から急拡大する。末法思想が広まるなか、法隆寺(奈良県斑鳩町)夢殿の本尊・救世くせ観音像が太子と同じ身長とされ、太子を観音菩薩ぼさつの化身とする信仰が生まれた。

同時期に編まれた伝記に基づき、絵画「聖徳太子絵伝」や、太子像が各地で大量に制作された。絵伝は江戸時代以前の作だけでも約100点が今も残る。

奈良県立図書情報館の千田稔館長(78)(歴史地理学)は「太子は施薬院や悲田院などの社会福祉施設を四天王寺に建てたとされる。その慈悲の精神が、争いや飢饉ききん、疫病が絶えない時代に、救済を望む人たちの思いと一致し、信仰が拡大した」と推測する。

全国に広がった太子信仰の痕跡は今も各地に残る。

27歳の太子が愛馬に乗り、富士山に登ったという伝説がある。山梨県富士吉田市の如来寺には、約30キロの太子の銅像があり、江戸末期までは夏の約2か月間、信者たちが銅像を7合目付近の小屋に運び、安置した。

明治時代に途絶えたが、渡辺英道住職(70)が2009年に復活させた。夏に檀家だんからが銅像を背負い、山小屋などがある8合目まで運び、法要を営む。渡辺住職は「太子が広めた『和の心』を世界に発信したい」と語る。

■ 1300年法要 26万人
盛大に営まれた1300年遠忌の法要=「聖徳太子一千三百年御忌法用記念写真帖」より

100年前、法隆寺で開かれた聖徳太子1300年遠忌の法要。7日間で全国から約26万人が訪れるほど盛大に営んだ。当時の写真からは、多数の僧侶が居並ぶ厳かな雰囲気が伝わる。

遠忌の法要を成功に導いたのが、実業家の渋沢栄一とされる。明治時代の廃仏毀釈きしゃくで大きな打撃を受けていた法隆寺が協力を依頼し、渋沢を副会長とする奉賛会が成立。経済界を巻き込んだ法要は、太子を見直すうねりをつくることになった。

その9年後には太子の肖像を初めて採用した100円札が登場。戦後は1万円札の肖像として親しまれた。法隆寺では1934年から半世紀をかけた大修理も進み、太子信仰の拠点となった。

2月21日、法隆寺聖霊院で、太子の遺徳をしのぶ恒例の法要「御忌ぎょき」があった。聖徳太子坐像ざぞう(国宝)を納めた厨子が開かれ、堂内に読経の声が響くなか、地元住民や遠方から来た観光客が手を合わせた。

古谷正覚住職(72)は「太子は人々が平和に暮らす理想社会をつくりたいと考え、実現のために仏の教えを世に広めた。遠忌の法要ではその思いを改めて多くの人に知ってほしい」と願う。

(2021年3月25日読売新聞奈良県版から)

特別展「聖徳太子と法隆寺」公式サイトはこちら

https://tsumugu.yomiuri.co.jp/horyuji2021/

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