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復元された「黄金の茶室」(左)と「待庵」(京都国立博物館で)=河村道浩撮影

2022.11.8

【利休とゆかりの茶人(上)】 わびの精神 今も濃く

天下人に重用され、わび茶を大成させた千利休。その精神は茶人たちに引き継がれ、生誕500年を迎えた今も存在感を放っている。利休ゆかりの場所や人物を巡った。

◆ギネス級の茶会

10月1日、北野天満宮(京都市上京区)でギネス記録が生まれた。「お茶のオンライン交流会に参加した最多ユーザー数」。天満宮発の生配信は3475人が視聴し、思い思いに一服を味わってネットに写真を投稿した。

企画したのは茶系飲料大手「伊藤園」(東京)。イメージしたのは435年前――1587年の同じ日、同じ場所で開かれた「北野大茶湯」だ。

豊臣秀吉が発案し、利休が演出した一大イベントは、江戸時代の「北野大茶湯図」に描かれている。町人や農民も、釜一つ、釣瓶つるべ一つでも構わない。集まった800人余りがくじをひき、「一番」は秀吉、「二番」は利休のてた茶を楽しんだ。茶の湯の場では、皆、平等。その精神は茶を庶民に身近な娯楽に押し上げた。

◆名水に導かれ

港町・堺の商家に生まれた利休。その足跡をたどると、豊かな水の音が聞こえてくる。

利休を茶頭に据えた織田信長は、京都でたびたび茶会を開いた。本能寺跡から程近い西洞院通三条下る(京都市中京区)に湧くのが、利休がを避けるために柳を植えたとされる「柳の水」。今は黒染め専門店「馬場染工業」の敷地に井戸がある。「鉄分が豊富で、お茶にも黒染めにも向いている」と黒染師の馬場麻紀さん(57)。「黒は一番、気高い色」。最高の黒を追究する姿に、黒好みの利休が重なる。

「柳の水」を管理する馬場さん。近所の人や料理人もくみに訪れる(京都市中京区で)

利休は後の天下人・秀吉とも関係を深めた。秀吉が本拠としていた山崎に、利休作の茶室「待庵たいあん」(京都府大山崎町)が残る。2畳の空間で振る舞う茶には、天王山を源とした水無瀬川の伏流水「離宮の水」が使われた。この水はサントリーの創業者・鳥井信治郎も魅了し、ウイスキーの蒸溜じょうりゅう所が建てられることになる。

関白となり、権力をほしいままにした秀吉だが、利休との溝は次第に深まる。利休最後の屋敷は晴明神社(京都市上京区)の境内にあった。ここで使ったのは、安倍晴明が念じて湧き出たと伝わる「晴明井」の水だ。

表千家、裏千家、武者小路千家の茶道三千家から近く、茶会にも用いられる。山口琢也宮司(61)は「ある方が『厳しい水』と表現されたことが忘れられない」という。扱いが難しいという意味か、利休の悲壮な最期に思いをはせずにいられないからか。

晴明神社の境内にある晴明井と山口宮司。恵方から水が出るようになっている(コロナ禍で一般提供は中止)(京都市上京区で)

秀吉の逆鱗げきりんに触れた利休は1591年に自刃。首は近くの堀川にかかる一条戻橋にさらされた。

◆二つの茶室

利休と秀吉。2人の決裂の理由は、しばしば二つの茶室になぞらえて語られてきた。豪華絢爛けんらんな「黄金の茶室」は、秀吉の成り金趣味の象徴として。「待庵」は、利休がわびの精神を突き詰めた茶室として。だが今では、黄金の茶室にも少なからず利休が関わったとみる向きが強い。

京都国立博物館(京都市東山区)で開催中の特別展「みやこに生きる文化 茶の湯」では、二つの茶室の復元を並べて展示中だ。降矢哲男調査・国際連携室長(45)はサイズ感がほぼ一致することに着目。「狭く限られた空間でお茶を楽しむ二つの茶室には、共通する精神性が宿っているのかもしれない。答えはありませんが」。こうした想像を喚起することこそ、利休の狙いだったのかもしれない。

(2022年10月22日付 読売新聞京都版より)

 

特別展「京に生きる文化 茶の湯」
(京都国立博物館)
公式サイトはこちらから

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