日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」公式サイト

2026.9.2

【勧進薪能「田村」の世界】(2)永平寺 - 曹洞宗大本山「禅道場」780年

永平寺2代・懐奘禅師七百五十回忌奉納

永平寺の山門

永平寺

日本曹洞宗の大本山・永平寺は、鎌倉時代中期の開創から780年以上にわたり、禅の道場として伝統を重ね、歴史を刻んできた。

開祖・道元(1200~1253年)は1244年、越前国志比庄しひのしょう(福井県永平寺町)に大仏寺を開き、2年後に永平寺と改めた。朝廷との関係を築き、後嵯峨上皇から最高位のみが許される紫衣しえを与えられたと伝わる。何度も辞退した末にようやく受けたが、一生涯、身につけることはなかったという。超然とした禅師の態度を表したものと考えられる。弟子の懐奘らが教えを広めていく。

永平寺は南北朝時代の1372年、後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の直筆の額(勅額)を受ける。天皇の命により国家安泰などの祈願をささげる勅願寺として、出世の道場となった。

江戸時代の1615年には、徳川家康から「永平寺法度」を受け、「日本曹洞の末派は永平寺の家訓を守るべし」との命を下された。その後、客殿などが焼失したが、道元四百回大遠忌までに再建。さらに度重なる火災に見舞われるが、遠忌を機に再建や整備をしてきた。

明治期に大規模な伽藍整備

明治期には、大規模な伽藍がらん整備が行われ、仏殿や僧堂などを改築する。宿坊を建設し、増加する参拝者にも対応した。道元の教えを受け継ぎ、実践する禅の修行道場として、また人々の心に安らぎを与える場として、現在も多くの人が訪れている。

永平寺の全景=永平寺提供

懐奘えじょう

懐奘(1198~1280年)

京都・藤原氏の一族、藤原伊輔これすけの子として生まれた。18歳で比叡山に入って剃髪ていはつし、21歳で僧となった。仏教教学の基礎を学び、天台宗の座禅に関する文献を学ぶなど、学業に熱心だったと伝わる。そんな中で、母から「自分の名誉のための学びをせず、歩いてどこまでも学びに赴きなさい」と言われ、比叡山を離れたという。

その後、浄土教や禅宗の一派、達磨宗を学び、道元に弟子入り。信頼が厚く、首座(修行僧たちの第一座)に任命された。師の身の回りの世話や、修行僧の食事を用意する役目も担ったという。

「正法眼蔵」書写や道元の語録

道元の著「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」の書写を行ったことでも知られる。永平寺所蔵の正法眼蔵「仏性」巻は一字一字、丁寧に書き写され、道元が書き直した推敲すいこうの跡も反映されている。道元が説法を行った際にその言葉を留め、兄弟弟子らと共に語録「道元和尚広録(永平広録)」も編集した。

1252年に道元が体調を崩すと、翌年に永平寺を譲られ、2代目住職となる。後進を育成し、永平寺の運営に尽力した。

永平寺の歴史

永平寺二祖懐奘禅師 七百五十回大遠忌記念 勧進薪能
【日時】10月17日午後6時開演(8時20分頃終演予定)
【会場】永平寺東京別院の長谷寺(東京都港区西麻布)、麻布大観音前(雨天時は法堂)
【出演】二十六世観世宗家・観世清和、観世三郎太、山本東次郎
【主催】長谷寺勧進薪能実行委員会
【協力】読売新聞社
【特別協力】永平寺、観世宗家、長谷寺
【チケット】チケットぴあ、観世能楽堂(☎03・6274・6579)で販売

(2026年8月2日付 読売新聞朝刊より)

Share

0%

関連記事