2021.12.24
国宝「熊野速玉大神坐像」
「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!
今回お話をうかがったのは、和歌山県立博物館(和歌山市)の大河内智之・学芸員です。紹介してくださるのは、国宝「熊野速玉大神坐像」(熊野速玉大社蔵)。拝観することがめったにかなわない、日本の神々の姿を表した「神像」。その知られざる世界へとご案内いただきます。
―神像の歴史についてお聞かせください。
神像は、奈良時代の末頃、仏像をひとつのモデルとして作られ始めたといわれ、神社の社殿のなかにおさめられ、ご神体として祀られます。神官以外は見てはならないという宗教的禁忌のため、展覧会以外は、拝観や調査の機会はほとんどありません。そのため美術史的には研究がなかなか進まない分野です。
とはいえ、作られた数が仏像と比べて少ないわけではありません。明治時代に神仏分離の政策が行われるなか、多くの神社で神像が社殿の外へ出されて近くのお寺に移されたり、そのまま失われたりしました。そして、代わりにお札や鏡がご神体として祀られました。そうした歴史を経たことで神像の総数が減ったのです。また、遷宮などの特別な儀式の時にだけ厨子の扉を開ける神社も多く、いざ開けてみたら、虫に食われていたという事例も多いです。
私が和歌山県立博物館に就職して間もなく、鞆淵八幡神社のご神宝を紹介する展覧会を行いました。和歌山県紀の川市の山奥にあり、日本最古の国宝のお神輿が伝わる神社です。事前調査のため、宮司さんのご英断で社殿を開けていただいたところ、平安時代の神像が現れました。長い間、ほとんど光に当たってこなかったため、木肌も美しいままで、一瞬、新しいものかと思ったほどです。神像の様式変遷をたどった先行研究も少なく、正しく見極めなければというプレッシャーを感じながら調査し、11世紀の作だと判断しました。そして、こうした重要な神像はまだまだ各地に残されているだろうから、神像の知識を蓄えていかなくては、と思いました。その後も、地域の調査や展覧会をするなかで、さまざまな神像を拝観することができ、少なくとも和歌山県内については神像の研究をかなり進められたと思っています。
一番感動したのは、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の神像に出会わせていただいたことです。神の姿の理想的な表現が確立された平安時代初期を代表する作例といわれ、日本の神像研究上、頂点に位置するものです。
2004年に、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)と高野山、そして、吉野の社寺がユネスコの世界遺産に登録されました。それを機に、地域の知られざる文化財を調査して、熊野信仰や高野信仰のありようをさらに明らかにしていくことが、地域に根ざした当館の務めだと考え、数年かけて、調査と記念特別展を数回行いました。
熊野速玉大社に伝わる神像群は、明治時代に古社寺保存法による国宝に指定され、戦後は重要文化財となり、その姿は写真で広く知られてきましたが、宗教的禁忌のため、拝観や調査の機会はありませんでした。それが世界遺産登録のタイミングで国宝に格上げとなり、社殿の中に安置したままだと傷みが進むという宮司の英断により、社殿から出して保管することになりました。熊野速玉大社では、明治の保存調査の際に、御神霊を別の御霊代にお還しして、信仰上の尊厳の継続性を保っています。そして、その機会に、和歌山県立博物館の特別展でメイン中のメインとしてご紹介させていただくことになったのです。
―初めてご覧になったときの印象をお聞かせください。
神像が社殿から出され、別室にお座りになられているところにうかがいました。圧倒されたのは、その堂々たる大きさです。熊野速玉大神坐像は、像高100センチほどだと、データとしては知っていましたが、実際に目の前にすると、肩幅の広さや胸板の厚さに圧倒されました。冠をかぶり、長いあごひげをたくわえ、体には袍という衣をまとっています。お顔立ちも威厳があり、目を大きく見開き、眉をぐっとしかめ、そして奥歯をかみしめて頬が張り詰め、唇が引き締まっています。ひれ伏すような心持ちになり、「まさしく神様のお姿だ」と感じたのです。
仏像にも圧倒されるようなお像がありますが、この威厳は、神像ならではだと感じました。昔の人が感じた「神様らしさ」というのでしょうか。作り手はおそらく、仏像を作っていた仏師だと思いますが、神様という畏れ多い存在をどのように表現すればよいか探求したすえに生まれた造形だと思います。
対になる女神、夫須美大神の像も、高さ100センチ近くあり、まげを結い、頬がふくよかで、まなじりは細く開いています。威厳ある熊野速玉大神に対して、こちらは豊満さと清らかさを感じさせます。女神の片膝を立てる座り方は、古代、中国から周辺地域に伝わったもので、今も朝鮮半島に残っていますが、古代日本においても、正式な座り方のひとつだったことがうかがえます。
男神と女神それぞれの理想的な風貌を極めながらも、大きさはほぼ同じで、どちらが上か下かということは一切なく、対等の存在として作られたことが感じられます。
神像や仏像を通して地域史を考えるとき、「そのお像が別の場所から移動してきた可能性がある」という問題がつきまといます。つまり、今あるお寺や神社にずっとあったかどうかわからなければ、そこから何かを論じるのは危ないだろうということです。そこで私は、和歌山県内で仏像が移動した事例を網羅的に調べました。すると、何のゆかりもない場所に移動してきたケースは皆無でした。「火事や災害、戦などでやむなく移動した」「もとあった神社の横のお寺に移動した」「同じ地域内にある同じ宗派のお寺に移動した」といったケースが大半だったのです。神像の場合、多くの神社はずっと同じ場所にあるため、当初からその地域に祀られてきた確率が高いです。
熊野速玉大社の神像も、今から1100年ほど前に作られ、以来、同じ地域のなかで祀られてきたと考えられます。熊野信仰は平安時代の中後期に生まれたのですが、それ以前から、熊野には地域の豪族が神々を祀る信仰文化がありました。この神像の威厳ある姿は古代の豪族の長とその妻を思わせるため、もともとは、熊野川の河口部を統治していた豪族の先祖崇拝の対象として作られたのだろうと思います。さらに、子どもにあたる国常立命像も伝わっていて、こちらは髭がなく、はつらつとした青年の風貌です。ですから、父、母、子と、一族がつながっていくことを示す祖先神として作られたと考えられるのです。
私が初めてこの神像と対面したときには、ただただ圧倒されたわけですが、その後、この造形をしっかり見て、「どこに伝わったのか」「どう祀られてきたのか」「姿かたちはどうなのか」ということを複合的に調べていくと、こうして、それまでまったく見えていなかった地域の歴史や当時の風景が立ち上がってくるわけです。
◇ ◇ ◇
今回ご紹介いただいた熊野速玉大社の神像は、「創立50周年記念特別展 きのくにの名宝―和歌山県の国宝・重要文化財―」(2021年10月16日~11月23日)にもお出ましでした。展覧会で神像や仏像と出会ったら、大河内さんのお話をヒントに、そのお像を祀ってきた地域へと思いを馳せると、その歴史がよりいきいきと感じられそうですね。次回は、「仏像大好きっ子だった」という大河内さんが学芸員になるまでのお話、そして、仏像の盗難を防ぐために始めた3Dプリンター製仏像「お身代わり仏像」のプロジェクトまで、たっぷりとうかがいます。
【大河内智之(おおこうち・ともゆき)】1974年生まれ。龍谷大学文学部史学科(仏教史学専攻)卒業、帝塚山大学大学院人文科学研究科(日本伝統文化専攻)博士前期課程修了。2001年、同博士後期課程中途退学。同年より、和歌山県立博物館学芸員。現在、同館主任学芸員。担当展覧会は「高野山麓 祈りのかたち」(12年)、「熊野-聖地への旅-」(14年)、「高野山開創と丹生都比売神社」(15年)、「道成寺と日高川」(17年)、「仏像と神像へのまなざし-守り伝える人々のいとなみ-」(19年)、「国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史」(20年)など。編著書に「浄教寺の文化財」(06年)、「浄教寺の文化財 改訂版」(21年)。ウェブサイト「観仏三昧」を運営。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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