2022.3.19

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 27-上 永島明子さん(京都国立博物館学芸員)

「楼閣山水蒔絵水注」

楼閣山水蒔絵水注
江戸時代・17世紀末~18世紀初頭
(京都国立博物館)

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回お話をうかがったのは、京都国立博物館(京博)の永島明子学芸員です。紹介してくださるのは、京博所蔵の「楼閣山水蒔絵水注ろうかくさんすいまきえすいちゅう」。洋の東西を結んだ、美しい輸出漆器の物語をひもときます。

西洋へ渡った漆器

―「楼閣山水蒔絵水注」は、江戸時代に輸出用の漆器として作られたそうですね。

漆器とは、漆を塗った東洋独特の工芸品のことで、とりわけ日本では、漆の黒地に金の文様を表す「蒔絵」が発展しました。ご覧の文様の大部分は、複数ある蒔絵の技法のなかでもシンプルな「平蒔絵ひらまきえ」で、漆で文様を描いた部分に金粉を蒔きつけ、乾燥させてから表面を少し磨いてあります。

かつて蒔絵は、公家や将軍家のお抱え職人などだけが作るものでしたが、桃山時代になると、漆絵の職人も平蒔絵を手がけるようになり、蒔絵職人が激増したようです。さらに、朝鮮半島出身の螺鈿らでん職人も増えたらしく、漆工芸が盛んになり、平蒔絵で秋草の文様をほどこす漆器が流行しました。高台寺こうだいじの豊臣秀吉とおね(ねね)をまつる厨子ずしにもそうした蒔絵がほどこされているため、「高台寺蒔絵」と呼ばれます。

そうしたなか、ポルトガルやスペインの船に乗った宣教師がインドやフィリピン経由で来日するようになり、日本の蒔絵に魅了されて、小物や家具、教会で使う道具を注文するようになりました。これを「南蛮漆器」と呼びます。インドやポルトガルには隙間なく文様で埋め尽くしたデザインが多いため、彼らは、金銀の蒔絵や白く輝く螺鈿で埋め尽くした華やかなデザインを好みました。京博に伝わる「IHS花入籠目文はないりかごめもん蒔絵螺鈿書見台」もその一つです。聖書を載せる台ですが、イスラム教圏で聖典を載せる台と同じ構造のため、おそらく商人が持ち込んだ外来の土台に蒔絵がほどこされたか、外来の土台を見本に日本で作った木地を用いたのでしょう。

IHS花入籠目文蒔絵螺鈿書見台
桃山時代・16世紀末~17世紀初頭
(京都国立博物館)

その後、1639年までに出された鎖国令によってスペインやポルトガルの船は来航禁止となり、以降は、1600年代初めから来日し始めていたオランダ商人が活躍します。彼らはそれまで南蛮漆器も扱っていましたが、こののち、「紅毛こうもう漆器」と呼ばれるオランダ人好みの輸出漆器が盛んに作られました。オランダ人は、黒い服や黒檀こくたん製の家具など、黒を好んだため、漆を塗った美しい黒地に金の文様が映えるシックなデザインが特徴です。なかでも、文様の部分を漆で厚く盛り上げた「高蒔絵たかまきえ」は、光が当たると文様がくっきりと際立つため、人気でした。

高蒔絵の紅毛漆器は、ヨーロッパ各地のお城に伝わっています。一番人気だったのは大型の箪笥たんすです。王侯貴族はそうした箪笥や暖炉の上に磁器を並べて飾りました。小型の漆器も同じように飾られることがありました。少し時代がくだりますが、この「楼閣山水蒔絵水注」もおそらくそうした装飾品の一例で、近年、ヨーロッパで売りに出されていたものを、日本の美術商を経て京博が購入しました。

―当時の日本の職人たちは、漆器が最終的に西洋のお城にも飾られていることを知っていたのでしょうか。

さあ、どうでしょう。しかし、台脚を足されて壁際にぴったりと置かれることは想定していなかったと思います。ヨーロッパでは腰高の台の上に載せた箪笥の上に陶磁器などを並べるので、天板の装飾は見えないのですが、箪笥を見下ろす日本では、天板の装飾は重要でしたから、当時の日本の職人は輸出用の箪笥の天板にも丁寧な蒔絵を施しました。彼らはオランダや中国の商人の注文に応えていたわけですが、その物作りは、実は非常に国際的なつながりのなかにありました。「草花蒔絵漆皮楯そうかまきえうるしがわたて」(京博)は高蒔絵の紅毛漆器ですが、オランダ東インド会社の商館はアジア各地にあったため、こうした革製の盾を水牛やサイがいる地域で作り、それを日本に送って蒔絵を施すよう注文した記録が残されています。そして完成品をインドへ、あるいは王侯貴族や大商人の家紋を入れて欧州へと送ったのです。

草花蒔絵漆皮楯
江戸時代・17世紀前半
(京都国立博物館)
西洋受けする、東洋らしいデザイン

―「楼閣山水蒔絵水注」の見どころをお聞かせください。

この注ぎ口が細い形の原型は、中東で香油などを入れる金属製の瓶といわれ、中国では同形の焼き物、「仙盞瓶せんさんびん」が作られました。日本にも少数ながら輸出されていたので、一部の日本人もその形を知っていたと思いますが、蒔絵水注については、中国の商人、もしくは中東や中国でこの形の水注を目にしたヨーロッパの商人が来日して、同形の漆器を注文したと考えられます。つまり、この漆器は、人々の交流や交易を通して多様な文化を経て生まれたものなのです。

首の根元をぐるりと囲む、菊の花びら形の連続文は、国内向けの漆器にはみられないデザインです。胴体の風景画は、中国の焼き物によく描かれる「楼閣山水図」です。とがった屋根の建物が水辺に立つ風景は、西洋人から見た東洋のイメージとして好まれました。日本の職人が予算の範囲内で工夫して、西洋人が好む東洋風のデザインを生み出したのでしょう。

1630~40年代には、特別な贈答用の漆器を作らせるのが得意なオランダ商人がいたらしく、非常に上質な蒔絵の漆器が、集中的に作られました。京博所蔵の「双龍花鳥そうりゅうかちょう蒔絵螺鈿裁縫道具入さいほうどうぐいれ」もそのころの作例で、当時のオランダ人女性は長いスカートの腰からこうした小物をぶら下げていたそうです。これほど見事に蒔絵や螺鈿の装飾がほどこされた裁縫道具入れはほかになく、オランダ東インド会社の商人が愛する女性のために注文したのではないかと、想像が膨らみます。

双龍花鳥蒔絵螺鈿裁縫道具入
江戸時代・17世紀半ば
(京都国立博物館)

こうした特注品は主にオランダ東インド会社が貿易上の便宜を図ってもらおうと、各地の王族などへの贈りものとして用いました。また、同社の上役の妻の名前を入れた漆器も伝わっており、部下が気をきかせて上司のために用意することもあったかもしれないと想像すると楽しいですよね。

アントワネットが愛でた漆器

―「楼閣山水蒔絵水注」とよく似た漆器が、フランス王ルイ16世の妃マリー・アントワネットの旧蔵品としてルーブル美術館に伝わっているそうですね。

当時、日本のものがヨーロッパへと渡るルートは、オランダ東インド会社が運ぶ以外にも複数ありました。清朝の皇帝や貴族も日本の蒔絵を好んだため、中国の商人が日本で買いつけたものを母国に持ち帰るかたわら、一部をアジア各地の港に運んでヨーロッパの商人に売り、それが西洋に渡ったケースも多いのです。ルーブル美術館所蔵の「楼閣山水蒔絵水注」もなんらかのルートで西洋に渡ったのち、ルイ15世の愛人だったポンパドール夫人の所蔵となりました。その後、おそらくパリの美術工芸商が買って、フランス王室御用達の金工職人に依頼して金の飾りを付け加えて販売し、べルサイユ宮殿に住むアントワネットの所蔵となりました。

アントワネットを漆器収集に導いたのは、「ダイヤモンドより漆器よ」という言葉を残した母マリア・テレジアでした。その母亡きあと、遺産として50個ほどの蒔絵の小箱を譲り受けたのです。とある人物が、その8年後にべルサイユ宮殿のどこにどんな漆器が置かれていたかを、記憶をもとに記した史料が残っており、その内容が正しければ、アントワネットは漆器を部屋のあちこちに置いて、母の思い出に囲まれて暮らしたようです。自分でも漆器を収集し、最終的には100点以上所蔵したといわれます。母娘2代にわたるコレクションには、日本国内向けを意図して作られた小振りの漆器も数多く含まれました。

革命と戦争をくぐり抜けて

―アントワネットのコレクションは、彼女の死後どのようにして現在に伝えられたのですか。

1789年にフランス革命が起き、当初、アントワネットは「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったといわれますが、やがて危険が迫ると、出入りの商人に、べルサイユ宮殿にある宝物を梱包こんぽうして、壊れているものは修理し、サン・クルー宮殿に運んで保管するよう頼みました。その後、アントワネットは捕らえられて処刑されます。

保管を任されていた商人は、革命で誕生した共和国政府(第一共和政)の美術委員に、前の王妃からの保管命令を解いてほしいと伝えました。コレクションを見に訪れた美術委員はその素晴らしさに驚き、1793年に開館したミュゼ・ロワイヤル(現・ルーブル美術館)に収蔵しました。

こうしてアントワネットら王侯貴族が収集した日本の漆器は、東洋への憧れとともに新たな時代へと引き継がれ、19世紀のパリ万博では小ぶりの漆器が人気を博しました。

その後、アントワネットのコレクションは第2次世界大戦中の疎開を経て、1945年頃、ルーブル美術館からギメ東洋美術館に移されました。そして、1960年代に、ベルサイユ宮殿にかつてあった美術工芸品を戻して一般公開することとなり、アントワネット旧蔵の漆器コレクションのうちの約半分がギメ東洋美術館からベルサイユ宮殿に戻されました。その後、漆器コレクションの一部が、有名な「鏡の間」の奥にあるアントワネットの私室に飾られていたこともあります。

◇ ◇ ◇

永島明子・京都国立博物館学芸員(鮫島圭代筆)

京博とベルサイユ宮殿を結ぶ漆器の物語はいかがでしたか。次回は、永島さんがパリで過ごした子ども時代の思い出から、輸出漆器の研究を始めるまでの経緯や、漆器鑑賞のヒントをうかがいます。

わたしの偏愛美術手帳 vol. 27-下に続く

【永島明子(ながしま・めいこ)】神戸市生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。在学中、ロンドン大学に交換留学。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士前期課程修了。京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。同博士後期課程中退後、論文提出によって京都大学博士(人間・環境学)に。1999年から、京都国立博物館に勤務。現在、教育室⻑兼工芸室勤務(漆工担当)。担当した主な展覧会に「japan 蒔絵―宮殿を飾る 東洋のきらめき―」(2008年)、「百獣の楽園―美術にすむ動物たち―」(11年)、「遊び」(13年)、「豪商の蔵―美しい暮らしの遺産―」(18年)、「オリュンピア×ニッポン・ビジュツ」(21年)。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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