2022.2.1
伊藤若冲「乗興舟」
「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!
今回お話をうかがったのは、和泉市久保惣記念美術館(大阪府)の後藤健一郎・学芸員です。紹介してくださるのは、伊藤若冲の「乗興舟」(和泉市久保惣記念美術館)。白黒の版画ながら色彩さえ感じさせるこの作品を通して、若冲の魅力を解説していただきました。
―「乗興舟」を初めてご覧になったのはいつですか。
2000年に狩野博幸先生が監修した、京都国立博物館の「没後200年 若冲」展です。当時、私は大学院生でした。「乗興舟」は11メートルを超える版画の絵巻で、のぞきケースに長く広げて展示されていました。それまで若冲といえば、カラフルな絵という印象だったので、黒と白だけに振り切っていることに、とても興味を持ちました。
―何が描かれているのでしょうか。
1767年(明和4年)に、若冲が京都・相国寺の僧侶・大典顕常と、京都から大坂まで、淀川の川下りをしたときの風景です。画面の手前の、舟が浮かんでいるのが淀川で、ご覧の場面は、枚方の近くだと思います。画面奥は遠くの山並みで、黒い部分は空にたなびく霞を表しているようです。
若冲はこの頃、相国寺に奉納するために描いた「動植綵絵」30幅をほぼ完成してひと息つき、この船旅に出かけたようです。朝、京都の伏見を出発し、一日舟にゆられて、大坂の八軒家に着いたのです。
淀川の川下りは当時の一般的な交通手段でした。ちなみに、円山応挙は1765年に「淀川両岸図巻」を描いており、2人の有名絵師が、ほぼ同時期に淀川を描いたというのも興味深いです。
この画巻の巻末には、大典による跋文(あとがき)があり、詳しい旅程とともに、この船旅の間、若冲が風景をスケッチし、大典が短い文章を書いたことが記されています。大典は高僧であり、多くの本を書いた教養人でした。この船旅で書いた大典の文章は「乗興舟」の版画の随所に漢字で記されています。ご覧の場面の文章では、2行目の真ん中に「茅屋」、3行目に「林間」とあり、家の周りに表されている白い部分が林であることをうかがわせます。若冲はこの木を、中国・清時代の絵手本「芥子園画伝」を参考に描いたようです。家や舟の形も簡略化しており、人物は丸や三角で表しています。
―どのような技法で作られたのでしょうか。
「拓版画」と呼ばれる版画技法です。まず下絵を描き、それを版木の上に重ねて、下絵の描線どおりに版木を彫ります。その後、下絵を外し、本紙を版木の上に重ねて、先ほど彫った筋のなかに指で本紙を押し込みます。このとき、紙が動いてずれないように、紙に何らかの液体を塗っておいたようです。そのあと、「たんぽ」(布を丸めた小さな巾着のような道具)に墨を染みこませて本紙に置き、版木に押しつけます。そうすると、筋に押し込んでおいた部分だけが白いまま残って、ほかの部分には墨が染みこみ、下絵に描いた線が白く表されるのです。
この作品で墨がグラデーションになっている箇所は、たんぽで墨をつけた部分です。一方、背景の空などの真っ黒い部分は、刷毛の跡が残っていることから、筆で黒く塗ったと判断できます。画巻全体を通して見ると、朝のうちは画面が暗く、だんだん日が昇ると、灰色のグラデーションで表す山並みの面積が増え、巻末に近づくと、夕方になり、日が落ちて、空の黒い部分が増えます。こうした明暗の表現や時間の経過が、この作品の大きな魅力です。
若冲の作品には、色への強い興味が表れています。極彩色を使った「動植綵絵」とは表現方法が違いますが、こうした白黒の拓版画であっても、若冲の頭の中では色が見えていたのでしょう。鑑賞者が色をイメージできるように表現していると思います。
拓版画の技法で作られた作品は珍しく、若冲以外の同時代の画家には見られません。もともと中国から伝わった技法のようですが、はっきりした系譜もわかっていません。若冲は、このほかにも、墨のにじみを利用する筋目描や画面を折り目状に区切る枡目描など、さまざまな表現方法や絵画技法を試みました。そうしたことも、若冲が「奇想の画家」といわれるゆえんだと思います。
―「乗興舟」は複数の刷りが残っているのでしょうか。
ええ。海外も含め13点が確認されています。大典と若冲だけが持つなら、2点でいいはずなので、誰か他の人も所蔵したのでしょう。どんな目的で作ったのかは分かりませんが、制作にかなりの手間がかかるため、販売用ではなかったと思います。
「単彩画―ひとつの色の多彩な世界―」展(和泉市久保惣記念美術館、2013年)を企画した際、三井文庫(東京都中野区)や大倉集古館(東京都港区)など各地の美術館に伝わる計6点ほどの「乗興舟」を比較調査しました。すると、細部にさまざまな違いがあることがわかりました。
当館所蔵品のご覧の場面(トップ画像)では、山の間を黒く塗り、黒い霞がたなびく様子を表現しています。ところが、これと同じ配色になっているのは、私が調べた限りでは、ニューヨーク公立図書館所蔵の「乗興舟」だけです。三井文庫所蔵の「乗興舟」には黒い霞はなく、この部分全体が灰色で、灰色の山並みが連なる風景になっています。
「乗興舟」は実は、画巻全体を通して山並みが長く連なる風景になっているため、当館所蔵品のように黒い霞が突然入ると、少し違和感があります。ですから、若冲は、拓版画を何版か作るうちに、全体に山並みが連なる描写に変えたと考えられます。とすると、三井文庫の所蔵品のほうがあとで作られたということになります。
一方、千葉市美術館(千葉市美)と京都国立博物館(京博)所蔵の「乗興舟」では、この黒い霞が途中で不自然に断絶し、左半分が周囲の山と同じ淡い灰色になっています。なぜそんな不自然な描写にしたのかはとても不思議です。版画を摺りあげてから筆で黒く塗りつぶすこともできるのに、あえてしなかったわけです。もしかしたら、若冲は、下絵を描いたあとの制作工程を、彫り師、摺り師、表具師に任せることがあったのかもしれません。
もうひとつ、細かな違いがあります。当館の「乗興舟」では、この黒い霞の上部に、白い2本の線が入っています。千葉市美と京博のものでは、この霞が途中で切れているわけですが、千葉市美のほうにはこの白い線が2本あり、京博のほうには1本しかないのです。版木を彫り足して白い部分を増やしたとすれば、京博のほうが先に作られたと考えられますが、白い部分をあとから筆で塗りつぶした可能性もあり、どちらが先に作られたのかはわかりません。
一方で、若冲が彫りや摺りの工程に、意図的に変更を加えたと考えられる箇所もあります。それは、淀城が描かれている場面です。三井文庫のバージョンでは、天守閣の右下に建物が1棟追加されているのです。このため、三井文庫の「乗興舟」のほうが、あとで作られた可能性が高いです。こうして作品の細部を比較することで、画家の制作過程を追うのも、美術史研究の楽しさです。
◇ ◇ ◇
後藤さんの解説を通して、若冲のセンスや画技に宿るオリジナリティーを堪能していただけたことと思います。次回は、後藤さんが美術史を志すきっかけになった展覧会や、和泉市久保惣記念美術館で特に人気の作品などについてうかがいます。
【後藤健一郎(ごとう・けんいちろう)】1975年生まれ。長野県出身。1998年、関西学院大学文学部美学科卒業。同大学院文学研究科(美学専修)博士課程前期課程修了、同後期課程単位取得修了。2004年4月から07年3月まで、関西学院大学文学研究科研究員。06年4月から、堺市立文化館・与謝野晶子文芸館(大阪府)嘱託学芸員。07年4月から、和泉市久保惣記念美術館学芸員。担当した展覧会に「数の美術 数えて楽しむ東アジアの美術」(10年)、「単彩画 ひとつの色の多彩な世界」(13年)、「笑いのかたち 絵が笑う絵で笑う」(15年)、「土佐派と住吉派 やまと絵の荘重と軽妙」(18年)がある。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
0%