かつては紙幣のカオとして、今も歴史の教科書でおなじみの聖徳太子。2021年は、聖徳太子の1400年忌という節目の年にあたります。紡ぐプロジェクトでは今年、特別展「聖徳太子と法隆寺」を奈良国立博物館(4月27日~6月20日)と東京国立博物館(7月13日~9月5日)で開催するとともに、サイトでも「聖徳太子1400年御遠忌」に関連した様々なトピックスを紹介します。なぜ太子は、1000年以上にわたって日本人に愛されてきたのでしょうか。知っているようで知らない太子の功績や、現代まで連なる魅力などを探っていきます。
聖徳太子ゆかりの法隆寺(奈良県斑鳩町)で1月1~3日、800年にわたり続く伝統の行事「舎利講」が行われた。同寺東院舎利殿(重要文化財)の本尊である「南無仏舎利」を拝む法要で、毎年正月三が日に行われている。
寺伝によると、2月15日の夜明けごろ、2歳の太子が東へ向かって「南無仏」と唱えたところ、合わせた手のひらから仏舎利がこぼれ落ちたという。それを水晶の五輪塔に納めたといい、現在の五輪塔は貞和4年(1348年)に作られた。
法要では、舎利殿に安置された「聖徳太子像(二歳像)」を前に、古谷正覚住職らが、舎利をたたえるお経「舎利講式」や節のついた「迦陀」を唱和。
僧侶の一人が中央の厨子から七重の錦の袋に覆われた五輪塔を取り出し、一枚ずつ錦を解いて礼拝した。
今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため舎利殿内は関係者のみが参列したが、建物の周囲には熱心な参拝客らが訪れ、手を合わせていた。
舎利講の最中には、慣例通り東院の鐘楼の鐘が7回鳴らされた。「七つ鐘」と呼ばれており、平安時代の歌人・和泉式部が「南無仏の舎利を出ける七つ鐘 むかしもさそな今も双調」と詠んだことで知られている。
仏舎利への法要は貞応元年(1222年)から続く。明治以前は毎日行われていたといい、大野正法執事長は「舎利は法隆寺にとっては大変に大切なもので、昔は舎利を管理する特別な役職があり、その筆頭が現在でいう住職だった。歴代の僧侶たちによって守り伝えられてきたものだ」と話す。
特別展「聖徳太子と法隆寺」の東京会場では、聖徳太子像と南無仏舎利の展示に合わせて、舎利殿の中の様子も再現される。大野執事長は「信仰の空間を再現することで、文化財という以上に、先達によって大切にされてきた信仰の結晶であることを、来館者の皆さんにもぜひ知っていただきたい」と話していた。
(読売新聞紡ぐプロジェクト事務局 沢野未来)
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