現代の生活ではパソコンやスマホを使うので、鉛筆やペンを使う機会がめっきり減りましたね。とはいっても、鉛筆が日本に普及したのも明治時代以降のことで、それまで文房具の主役は筆でした。
中国では、遠く紀元前11世紀にさかのぼる殷の時代に、すでに筆で書いた記録があるそうです。その後、筆,硯,紙,墨を「文房四宝」と呼ぶようになり、豪華な素材で作られた文房四宝は鑑賞の対象ともなりました。
『日本書紀』によれば、飛鳥時代に朝鮮半島の僧侶が紙と墨を伝えたとあり、筆の製法も古代に伝来しました。
奈良には多くの大寺院があり、写経が盛んに行われたため、平安時代頃から筆づくりの中心地となります。
日本最古の筆は、東大寺・正倉院に伝わる巻筆といわれます。
巻筆とは、毛を束ねて根元に紙を巻き、その周囲に上毛をかぶせて筆軸に差し込んだもので、穂先の動く部分が短いので、細い線を書くのに適しています。このため今でも写経に使われることがあります。
一方、現在広く使われている筆は、水筆といいます。穂の根元を紙で巻かずに糊で固めて作るため、細い線だけでなく、たっぷり墨を含ませて太い線や抑揚のある線を引くこともできます。
みなさん、小学生の頃に使っていた書道セットを思い出してみてください。太さの違う水筆が2本ほど入っていたと思います。
筆には、穂の太さ、長さ、やわらかさなど、さまざまな種類があります。
山羊、馬、鹿、タヌキ、イタチ、ウサギなどの動物の毛が使われており、通常は数種類を組み合わせて一本の筆の穂を作ります。同じ動物でも体の部分によって、毛の硬さや長さが違いますよね。どの動物の、どの部分の毛を、どのように組み合わせるかによって、書ける線の太さや風合いが変わるのです。
書家や絵師は、どんな字を書くか、どんな絵を描くかによって、いろいろな筆を使い分けます。
中国の山羊の毛はやわらかくてすり減りにくいので高級な筆に使われ、馬の毛は毛が長くて腰が強いので、太くて長い筆を作るのに適しているとか。タヌキの毛は、根の部分が細くて、先のほうに行くにしたがって太く弾力性があるため、穂の根元に他の動物の毛を混ぜて作るそうです。そして鹿の毛は、水をよく含み弾力性があるので、穂の根元に多く使われるといいます。
ここで、伝統的な水筆の作り方をご紹介しましょう。
まずは使う毛を選びます。そして余分な綿毛を取り除き、米のとぎ汁で数時間煮込んで消毒し、毛の癖や油分を取り除いてやわらかくします。陰干しして完全に乾かし、まだ薄皮が残っている場合は皮を取り除きます。
穂は、軸に近いほうから穂先に向かって、腰毛、喉毛、命毛といいます。どの部分にどの毛を使うか考えながら、毛をより分けます。なかでも命毛は書くときにまっさきに紙に触れる部分なので、弾力性のある細い毛を使います。
選び出した毛に櫛を入れ、さらに綿毛を取り除きます。
もみ殻を焼いた灰を毛にまぶし、鹿の革で巻いて手でよくもみ、そのあと、特殊なアイロンで押さえます。こうすると毛の油分を取り、曲がり癖を直すことができます。
その後、毛をまとめて毛先を揃え、無駄な毛を取り除きます。
揃えた毛を水に浸し、櫛でとかして、もつれた毛を平らに整えます。
腰毛、喉毛、命毛と、部分ごとに長さを切り揃え、丁寧に混ぜます。
筆 1 本分の芯毛を取ってフノリ(海藻から作る糊)で固め、コマと呼ばれる小さな筒に通したあと、自然乾燥させます。
芯毛の周囲にぐるりと上毛を巻き付けます。
穂の根元を麻糸で縛り、底をコテで焼いて毛が抜けないように固めます。
軸にはたいてい竹を使います。軸の内側を削り、穂の根元を差し込んで接着剤でとめます。
穂にフノリをしみこませてから、糸を巻いて余分なフノリをしぼりとり、乾燥させます。
軸に商品名や工房の名前などを刻めば、ようやく完成です。
筆づくりは、とても繊細で手間暇のかかる作業なのですね。
筆の穂は動物の毛ですから、丁寧に扱わなくてはなりません。筆を使ったら、水でやさしく洗って墨をよく落とし、水分を取って、穂が下になるように吊るすか、横にして乾かします。
小学生のころ、墨がついたままの筆を放置して、毛が固まってしまった経験はありませんか? こうすると筆が傷むのはもちろん、次に使うときに墨の色が悪くなります。
また、筆に長時間水気が残ると、穂の付け根が傷んで毛が抜けやすくなります。特に命毛はその名の通り、傷むと美しい線が引けなくなってしまいます。
筆のいろはがわかったところで、みなさんも久しぶりに筆を手に取ってみませんか。
日本画材店には多種多様な筆が並んでいて、眺めているだけで楽しくなります。
私は水墨画を描くのですが、1枚の作品を描くのに3~7本の異なる筆を使います。同じ絵の中でも、描く物によって筆を変えるのです。たとえば、細い線を描くときには面相筆、ごつごつした岩を描くときには山馬筆、やわらかい花びらを描くときには如水といった感じです。
筆の軸にはそうした名称が刻んでありますので、画材店で穂の違いを見比べてみてください。お店によっては書き心地を確かめることもできますよ。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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