浮世絵版画は江戸時代前期、本の挿絵が一枚の絵として独立したことで誕生し、当初は墨一色の「墨摺絵」でした。やがて墨摺の上から筆で色をつける「丹絵」や「紅絵」が生まれ、続いて墨用の版木とは別に紅や緑など各色用の版木を摺り重ねる「紅摺絵」が登場しました。
明和年間初頭、1760年代半ばに、武家や商人など裕福な趣味人の間で、「絵暦」と呼ばれる摺物を自費制作し、交換会を開くことが流行しました。当時使われていた太陰暦には、ひと月が30日ある「大の月」と29日しかない「小の月」があり、絵暦とは、その年の大小の月の数字を美しい絵のなかに潜ませたものです。例えば、美人が着るきものの模様に数字が隠れているという具合です。
趣味人たちはお金に糸目をつけず、アイデアと美しさを競いました。そのニーズに応えて版画技術が急速に発達し、多くの色版を使って摺り上げる多色摺りの木版画が誕生します。華麗な錦の織物に例えられ、「東(吾妻)錦絵」と名付けられました。「東」の名称には江戸っ子の誇りが感じられますね。
絵暦交換会の主要メンバーには、巨川の俳号で知られる、旗本(幕府直属の家臣)・大久保甚四郎忠舒がいました。巨川が絵暦の作画を依頼した絵師こそ、今回のコラムの主人公、鈴木春信です。
春信はもともと、江戸の神田白壁町(現在のJR神田駅付近)に貸家を持つ比較的裕福な町人だったようです。36歳頃に画業を始め、当初はもっぱら鳥居派の技法にならった歌舞伎役者の紅摺絵を描いていました。
絵暦交換会に春信を誘ったのは、西欧文化に通じた知識人・平賀源内ともいわれます。源内は春信と仲が良く、春信の長屋に住んでいたともいわれ、巨川とは俳諧仲間だったのです。
春信は、巨川や源内ら時代の先を行く文化人に囲まれ、大いに刺激を受けたことでしょう。そして前述の絵暦で洗練された美人画を描き、注目を集めました。商魂たくましい江戸の版元たちは絵暦の木版から暦や印を削り取り、摺りの色味を濃くするなどして一般向けに販売。春信は一躍、人気絵師となり、以降、すさまじい制作ペースで、6年間で数百図もの浮世絵を世に送りました。
春信が描く美人は、いずれも可憐な若い娘です。恋人たちの絵も多く、男女とも華奢な体つきで、年の頃15、6歳。男も振り袖を着ている場合もあり、一見男女の区別がつきません。見分けのポイントは男の髪形で、前髪は残したまま頭頂部のみを剃る「若衆髷」という元服前のスタイルです。
まるで夢のなかのような甘く優しいその絵画世界は、後世、童話作家の宮沢賢治を始め、多くの芸術家を魅了しました。近代の詩人・野口米次郎は「天国と地上を柔な詩の紐で結んだような情調が流れて居る」とたたえています。
春信画の持つ深い趣には秘密があります。場所、季節、時刻などが推測できるモチーフがちりばめられており、恋愛ドラマを見るような臨場感を演出しているのです。時に、恋の象徴ともされる猫など、小動物が脇役を務めることも。
また、しばしば古典文学や和歌、故事の有名な場面を、当世の若い恋人の姿に置き換えて描きました。これを「見立て絵」といい、雅から俗へと置き換えるという意味で「やつし絵」とも呼ばれます。こうした仕掛けをするには、文学的素養に加え、発想力や遊び心が必要です。春信は見立ての手法を京都の浮世絵師・西川祐信の絵本などから学び、また、巨川ら周囲の趣味人たちからアイデアを吸収したのでしょう。教養豊かな鑑賞者は、絵に織り込まれた古典物語を読み解いて楽しみました。
富裕層をターゲットとした春信の錦絵には高級な画材が使われ、値段も高価でした。純度の高い本紅、青花を搾ったさわやかな水色など、軽やかな発色の高価な天然染料。そして、複数の色版を摺り重ねても耐えうる厚手で最高級の奉書紙。包装にも手をかけ、紙に包んだり、桐箱におさめたりして販売されたようです。
現代の印刷技術でいうエンボス加工(浮き出し加工)に似た、摺りの技法も見どころです。「空摺」は、模様を彫った版木を紙に強く押し当てて摺ることで、紙に凹凸をつける技法。白い着物の模様や白鷺の羽毛などの表現に見られます。これとよく似た「きめ出し」は紙にゆるやかな凸面を作る技法で、ふんわりした雲などが立体的に表されています。
1768年頃からは、より大衆受けするテーマを描くようになりました。四季折々の江戸の景観、幸せそうな母子、無邪気に遊ぶ子ども、評判の町娘など、穏やかな江戸っ子の日常のほか、遊女たちの恋模様、そして女性の肌が露わな「あぶな絵」や春画も描いています。価格も手頃になり、錦絵の購買層を広げました。
春信の錦絵は「会いに行けるアイドル」も生み出しました。美人の町娘を描いて評判を呼んだのです。とりわけ多く描いたのは、東京・谷中の笠森稲荷の境内にあった水茶屋「鍵屋」の看板娘、お仙。多くの人が本人を見ようと店に押し掛け、手ぬぐいなどの関連グッズも売れて、芝居や舞踊にも取り上げられたとか。
しかし、人気絶頂のさなかであった1770年6月、春信は過労のためか、46歳頃に突然世を去りました。錦絵の誕生からわずか6年ほどの活躍でしたが、多くの絵師がその画風に追随し、浮世絵の発展に果たした功績は計り知れません。死後しばらくは「春信ロス」を嘆くファンや版元も多く、礒田湖龍斎らが春信の画風を守り、司馬江漢に至っては一時、贋作を作ったといいます。
春信は錦絵の創成期に活躍したため、もともと摺られた枚数が少なく、また明治時代にその多くが海外に渡りました。そんななか、9月22日まで東京都美術館で開催中の「The UKIYO-E 2020 ― 日本三大浮世絵コレクション」は必見です。お近くの方はぜひ、清楚な春信美人を間近でご堪能ください。
※ 「風流うたひ八景 紅葉狩夕照」は、会期中の8月25日(火)から 9月22日(火・祝)まで展示されます。(展覧会は日時指定入場制です。詳細は展覧会公式サイトでご確認ください。)
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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