日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」公式サイト
四季花鳥図巻(部分)
江戸時代・文化15年(1818年)
(東京国立博物館蔵)
ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)

2020.7.17

【大人の教養・日本美術の時間】日本スター絵師列伝 vol. 11 酒井抱一

琳派りんぱの「琳」の字には「美しい玉」という意味があり、時代や地域を超えて受け継がれたこの流派の、みやびで華やかな作風を伝えています。

京都を舞台に活躍した江戸時代初期の俵屋宗達たわらやそうたつ本阿弥光悦ほんあみこうえつ、江戸中期の尾形光琳おがたこうりん乾山けんざん兄弟を経て、江戸後期に将軍のお膝元・江戸に琳派の影響を受けた絵師たちが登場しました。そのなかで、「江戸琳派の祖」と讃えられるのが、今回の主人公、酒井抱一さかいほういつです。

大名家の子息が絵師となる

抱一は1761年、姫路藩主・酒井雅楽頭忠恭さかいうたのかみただずみの孫として、現在の東京都千代田区神田小川町にあった酒井家別邸に生まれました。数え7歳で父を、11歳で母を、さらにその翌年には祖父を亡くし、兄・忠以ただざねが家督を継いで第2代姫路藩主となります。抱一は兄に従い、江戸城大手門前(現・千代田区大手町)の酒井家上屋敷に移り住みました。

当時、参勤交代で江戸に滞在する大名たちは絵や俳諧、能、茶などをたしなんで交流し、忠以もそのひとりでした。屋敷には諸藩の大名のほか、俳諧師、絵師などの文化人が集い、10代の抱一は俳諧や絵の手ほどきを受けたようです。

浮世絵師・歌川豊春とよはるに学んだとも伝わり、大名家の子息としては珍しく、浮世絵美人画を多く描きました。生来の色好みに加え、兄に後継ぎが生まれて酒井家内の立場が微妙になったことも、抱一がこうした制作に打ち込む要因となったようです。

その後、30歳で日本橋蛎殻町かきがらちょうの酒井家中屋敷に移り住み、しくもその数か月後に兄が急逝。その息子・忠道が跡を継いで第3代藩主となりました。姫路藩の新体制が確立するなか、抱一は37歳の時、築地の西本願寺で出家します。

これ以降、「抱一」の号を多くの作品に記すようになりました。中国の古典「老子」から取った言葉で、あらゆる矛盾をみ込む聖人の身の処し方を意味するといい、出家して表舞台から身を引いた抱一の心の内がうかがえます。

僧侶となったため、生涯妻帯はしませんでしたが、吉原通いを続けるかたわら、遊女だった小鸞しょうらんを身請けして同棲どうせいし、のちに、弟子の酒井鶯蒲おうほを養子にしたと伝わります。

俳諧と絵に遊ぶ天才

抱一は、市中に暮らす文化人として句を詠み、絵を描いて暮らし、その両方で類いまれな才能を発揮しました。

狂歌では、落ち着きのなさを意味する「尻焼猿人しりやけのさるんど」というお茶目ちゃめなペンネームを使い、江戸出版界のヒットメーカー・蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうのもとからも俳諧集を刊行。その洒脱しゃだつで都会的なセンスは絵にも発揮されます。

琳派の装飾的で優美な作風に魅了された抱一は、作画にとどまらず、光琳・乾山兄弟についての研究も深めました。実は、生前の光琳と酒井家は縁があり、光琳が江戸に5年ほど住んだときに仕えた大名家のひとつが酒井家だったといいます。

抱一は1809年、49歳の時、上野・寛永寺近くの根岸(現・台東区根岸)に移り住み、以来約20年間、亡くなるまでここに暮らしました。

1814年、忠道が弟の忠実ただみつに家督を譲ります。第4代姫路藩主となった忠実は、抱一が特に可愛かわいがったおいっ子であり、これを機に酒井家との関係が改善しました。

抱一は 翌年、 長年の光琳研究の成果をもとに、光琳の百年忌のイベントをプロデュースしました。法要を営み、谷中の寺院で遺作の展覧会を行って、図録を刊行したのです。

展示された作品は60点余りと伝わり、そのうちの3点は生家・酒井家の所蔵品でした。そのほか一橋徳川家、老中の土井家、文人の谷文晁たにぶんちょう、吉原の役人や妓楼ぎろうの主人などから作品を借りたといい、抱一の華麗な人脈がわかります。

その後、そうした光琳作品を墨摺すみずり木版画にしてまとめた『光琳百図』を刊行し、のちに日本美術ブームに沸いたヨーロッパにも輸出されたということです。

晩年の名作

57歳の時には、根岸の自宅に忠実が揮毫きごうした「雨華庵うげあん」の額をかけました。以降、この号を作品にすようになり、画業の円熟期を迎えます。

なかでも有名な「夏秋草図屏風なつあきくさずびょうぶ」をご紹介しましょう。

抱一の夏秋草図(鮫島圭代筆)

今では改装されて独立した屏風になっていますが、以前は光琳の「風神雷神図 屛風」の裏面を飾っていました。 抱一は、敬愛する光琳の屏風の裏を手がけるに際し、さぞ気合が入ったことでしょう。

構図は、光琳が描いた表面の風神と雷神に呼応しています。風神の裏面には風になびく秋草、そして雷神の裏面には雨に降られた夏草と水の流れを描いたのです。なんともおしゃれですね。雨にうなだれるすすきや、風にあおられて空中を舞うつたの葉。中央には広い余白が残され、降り注ぐ雨や吹き上げる風を想像させます。

俳諧に遊んだ抱一は、雨風のあと、晴れあがった夜空に月が輝く情景を好んだとか。背景には光琳の作品に学んだ技法で、月光を表す銀箔ぎんぱくを一面に貼っています。

草花には緑青や朱などの鮮やかな絵の具が使われ、琳派の様式を受け継ぐデザイン性の高い描写。うつむき加減に咲く女郎花おみなえし、生い茂る葉の向こうに見え隠れする百合ゆりなど、俳諧師らしい繊細な感受性が発揮されています。

この屏風の注文主は、第11代将軍・徳川家斉いえなりの父で、当代随一の文化人だった一橋治濟はるさだです。抱一は、酒井家と一橋家の親交を深める一助となればと、制作に力を入れたようです。

流水四季草花図屏風
江戸時代・19世紀(東京国立博物館蔵)
ColBase (https://colbase.nich.go.jp/)

晩年には、光琳や乾山も取り組んだ伝統画題「十二か月花鳥図」を何セットも手掛けました。江戸の季節感覚を盛り込み、宗達や光琳のたらし込みを用いて、当時京都で流行していた円山応挙まるやまおうきょ風の構図や写実的な表現も取り入れて、華やかで新しい感覚の十二か月花鳥図を生み出したのです。ちょうど江戸で起きていた園芸ブームと相まって評判を呼び、この画題は弟子たちにも受け継がれていきます。

抱一はまた、光琳の絵をもとに漆器などのうつわをデザインするなど、多彩なプロジェクトにも携わりました。

死の前年の1827年には、水戸藩主・徳川斉脩なりのぶが主宰する茶会に招かれ、そこで自分のために用意された床の間の飾りに感激し、「関東画工の目面をほどこし難有ありがたけり」と記しています。

大名家に生まれながらも、出家して市井に生きる運命を受け入れ、やがて権力者から支持される人気絵師となった68年の数奇な生涯。今も、出家した築地本願寺にそのお墓を訪ねることができます。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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