琳派は特殊な流派です。狩野派や土佐派が血縁を軸に受け継がれたのとは異なり、美的センスや造形感覚そのものが時代を飛び越えて受け継がれたのです。
第1世代の俵屋宗達と本阿弥光悦、第2世代の尾形光琳・乾山兄弟、そして第3世代の酒井抱一。前回の宗達に続いて、今回のコラムでは、琳派の「琳」の字の由来でもある光琳をご紹介します。
光琳は宗達と同じく、江戸時代の京都で経済力を増した上層町衆の出身でした。生家は、大呉服商・雁金屋です。
戦国時代に商いを始めた曽祖父は、本阿弥光悦の姉と結婚し、浅井長政の3人の娘・茶々、初、江(それぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻)という上客を得て、上層町衆の仲間入りをしました。その息子、つまり光琳の祖父は、光悦が芸術村を開いた鷹ガ峰の地に家を構えたといいます。光琳の父の代には、東福門院(徳川秀忠の娘、後水尾天皇の女御)が大得意先となりました。
恵まれた環境のなか、光琳は幼いころから能をたしなみ、先祖である光悦風の書を学びます。そして光悦と合作したことでも知られる宗達の絵に魅了され、模写しました。
しかし、1678年、東福門院が世を去ったのを機に雁金屋は衰退に向かいます。特定の上客を抱える特権的な商売はもはや時代遅れとなっていました。このとき光琳は数え21歳。こうした経済的な事情から、絵で身を立てることを決意します。
琳派の先達・宗達の時代に芸術家を支援した上層町衆の多くは没落し、代わって出現した地方出身の新興商人の多くは、京都の伝統的な作風をあまり好みませんでした。
そのように時代が変わっても、光琳にとって光悦や宗達の芸術は自らのアイデンティティーであり、その美意識から離れることはありませんでした。光悦風の漆器や硯箱のデザインに挑み、宗達風の絵を描いたのです。
光琳はやがて公家社会に接近し、なかでも五摂家のひとつ、二条家の当主・綱平と親交を結びます。そして、おそらく綱平の強力な推薦を受けて、44歳の時、朝廷から絵師として、誉れ高い「法橋」の称号を授かりました。プロの絵師を目指してから数年という驚くべきスピードです。この称号は、その後の活動において強力な印籠となったことしょう。
この頃に描いた傑作『燕子花図屏風』もまた、二条綱平が縁をつなげた西本願寺からの注文制作だったようです。
全体に金箔を貼り巡らせた上に、鮮やかな群青と緑青で描いた燕子花の群生。モチーフは燕子花のみで、リズムよく並ぶ構図と、シンプルな色使いが非常に洗練されています。
この絵は『伊勢物語』の第9段「東下り」を連想させます。ストーリーは、主人公が友人とともに京都から東国を目指す道中、三河国の八橋にたどり着き、川のほとりに咲く「かきつばた」の五文字を句の頭において和歌を詠むよう頼まれるというもの。都に置いてきた妻を想い、「から衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」と詠むと、皆が涙をこぼします。
燕子花のみを描いたこの屏風は、観る者にそうした切ない想いまで想起させるのです。
40代半ば頃、光琳は11歳年下のパトロンを得ました。銀座(銀貨を鋳造する役所)の役人・中村内蔵助です。47歳のとき、内蔵助を頼って江戸に出た光琳は、様々な大名家の知遇を得ました。参勤交代で江戸に出ていた諸藩の大名たちは、光琳が描き出す京風の雅な世界に、幕府の御用絵師・狩野派とは異なる魅力を感じます。こうして光琳は京都の上層町衆が没落する時代にあって、新しい顧客層を開拓したのです。
江戸滞在は、新たな絵画表現を吸収する機会ともなりました。当時の大名家でもてはやされていた室町時代の禅僧画家・雪舟の水墨画を模写し、力強い線描を学んだのです。狩野派風の描写も試み、亡き巨匠・狩野探幽が残した絵手本も模写したようです。
とはいえ大名仕えは窮屈だったらしく、52歳で京都に戻りました。江戸で築いたネットワークのおかげで、諸大名から屏風絵の注文が舞い込むようになります。今日残る光琳の大作のほとんどは、以降、亡くなるまでの8年間に制作されました。
その代表作といえば、国宝『紅白梅図屏風』です。
2曲1双の金屏風の中央に、銀箔を貼って表した大きな川が蛇行し、その上には、宗達の絵に学んだ渦を巻くような水流の描写。川の両岸には紅白の老梅が力強く描かれ、墨のたらし込みに薄い緑を加えて重厚感を演出しています。梅の花は花びらをひとまとまりにつなげる光琳オリジナルの描写で、「光琳梅」と呼ばれます。
光琳は尾形家の次男であり、長男は家業を継ぎ、5歳年下の弟・乾山は陶芸家として知られます。禅宗に傾倒し、和漢の学問にも通じた乾山は、うつわの上に絵と書で味わい深い文学的な世界を表現しました。倹約が苦手で女性関係も奔放だった兄・光琳とは芸術的なセンスも異なりましたが、終生仲が良かったようです。
乾山は37歳の時、建仁寺の末寺・妙光寺のそばに鳴滝窯を開きました。当時、妙光寺には宗達の傑作、国宝『風神雷神図屏風』(現在は建仁寺蔵、TSUMUGU Gallery 参照)があったらしく、光琳はおそらく乾山を通してそれを知り、模写する機会を得たようです。
乾山はその後、50歳で京都市中に住む兄・光琳の近所に引っ越し、2人は共同制作を楽しみました。乾山のうつわに光琳が絵付けし、乾山が書をしたためて焼き上げたのです。兄弟の個性が溶け合った風雅でおしゃれな合作です。
光琳はそのほかの工芸でも才能を発揮しました。デザインを手がけた国宝『八橋蒔絵螺鈿硯箱』や、着物に直接絵を描いた『冬木小袖』は特に有名です。
先ほどご紹介した「光琳梅」のほか、菊の花や水の流れなどの意匠化でも知られ、どれもシンプルで可愛らしく、「光琳模様」と総称されます。1716年、59歳で世を去ったのちも着物や和菓子のデザインとして愛され、現代でも老舗の和菓子店などで光琳模様の和菓子を味わうことができます。みなさんも光琳のセンスを五感で楽しんではいかがでしょう。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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