2021.4.23
白隠慧鶴「楊柳観音図」
德川記念財団(東京都渋谷区)の柿澤香穂学芸員のお話が続きます。今回は、柿澤さんが学芸員を目指したきっかけや、学芸員として思い描く夢、理想の美術館像などについて、聞かせていただきました。
―子どもの頃から白隠に親しんでいたことが、学芸員を目指したきっかけですか?
私が美術史を始めたきっかけは、実は白隠でも、日本美術でもないのです(笑)。
両親が美術好きで、子どもの頃は東京の展覧会によく連れていってもらいました。静岡から新幹線に乗って、かなりの回数行ったと思います。覚えているのは小学生以降ですが、母によれば、もっと前からのようです。西洋美術の展覧会が多くて、上野の国立西洋美術館にはよく行きましたね。
そんななか、中学3年生のときに、「レオナルド・ダ・ヴィンチ全絵画作品・素描集」(フランク・ツォルナー著)という画集の表紙になっていた「洗礼者ヨハネ」を偶然目にして、とても衝撃を受けました。その画集はすごく高かったのですが、両親に頼み込んで買ってもらいました。
初めて見たときに「何だ、この絵は」と思って。それまでは、写真のように写実的な美しい絵が好きだったのですが、この絵は、ただきれいなだけでも、写実的なだけでもないと感じたのです。一体どんな意図で、どんな意味を込めて描かれたのだろう、と思いました。作品の表面ではなく、内部に疑問を持ったのは、そのときが初めてでしたね。
そうしたことはどこで学べるのだろうと、手当たり次第、本を読むうちに出会ったのが、若桑みどりさん(美術史家)の著書「イメージを読む 美術史入門」と「絵画を読む イコノロジー入門」です。それで、美術史学や学芸員という仕事を知りました。
それからは、のめり込むように勉強して、青山学院大学で西洋美術史を専攻しました。卒論もダ・ビンチについて書くつもりで、大学3年生の時、ついに実物の「洗礼者ヨハネ」を見に、フランスのルーブル美術館に行きました。数年越しに、募る思いを抱えて(笑)。でも、実物を見たら、私には手に負えないと思ってしまったのです。
欧米の美術館ではよく、子どもたちが絵の前に座ってディスカッションをしたり、ファシリテーターが子どもたちに問いかけたりしていますよね。そうやって絵と対話する子どもたちをルーブル美術館で見たとき、私がこの先、ダ・ビンチ研究を続けるには、こうした環境で育った人々と対等にやっていかなければいけないのかと、すごく差を感じてしまったのです。それで、私が研究するのはこの作品ではないのかもしれない、と、フランスで思い悩みました(笑)。
帰国してから、自分のルーツはどこにあるのかと、自分を見つめ直すなかで、「そういえば、白隠さんがいるじゃないか」と、思い至ったのです。子どもの頃から親しみを持っていたので、それからは迷いがなかったですね。
早稲田大学大学院で研究を続けながら、東京都美術館(都美)のアート・コミュニケーションの部署に2年間勤めました。日本ではまだ、美術館はハードルが高いと思われがちですが、そうしたイメージを少しでも払拭して、子どもたちに良い博物館デビューをしてもらうために何ができるかを考えて、展覧会に合わせてワークショップなどを企画する仕事です。
―ルーブル美術館での、絵と対話する子どもたちの姿と重なりますね。
まさに、それを日本でも実現できている場だと思います。日本美術は、自国の美術であるにもかかわらず、西洋美術よりもさらにハードルが高い印象があると思います。ですから、私の夢は、日本美術にもっと親しみを持ってもらえるような活動をすることです。都美での仕事は、そのための学びが得られる機会だったと思います。
その後、ご縁をいただいて德川記念財団に移りました。江戸開府400年にあたる2003年に、徳川宗家の18代当主徳川恒孝が設立した財団です。宗家に伝来した作品の保存管理、研究調査、公開を行っています。
所蔵品には、歴代将軍の書画や、天璋院(徳川13代将軍家定の正室。通称、篤姫)の旧蔵品、幕末の和宮(14代将軍・徳川家茂の正室)の婚礼調度などを中心に、貴重な作品が数多くあります。
紡ぐプロジェクトの特別展「桃山―天下人の100年」(2020年、東京国立博物館)にも出品した「初花」という唐物の肩衝茶入は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康と、天下人の手に渡った名品です。
所蔵品は毎年1~2月頃、江戸東京博物館(東京都墨田区)で開かれる企画展で大規模に公開しています。久能山東照宮博物館(静岡市駿河区)と日光山輪王寺宝物殿(栃木県日光市)では、それぞれ2か月ごとにテーマを変えながら常設展示を行っています。
久能山と日光山は、家康公の御霊が眠る地とされていますから、そうした場所で徳川宗家に伝来した宝物を見るというのは特別な経験だと思います。作品をより身近に感じていただけるのではないでしょうか。
―来館者に向けて、日本美術の楽しみ方の提案はありますか?
ファーストコンタクト、つまり、作品との初めての出会いを楽しんでもらえたらと思います。そのために美術館、博物館ができることは、本当にたくさんあると感じます。
サントリー美術館(東京都港区)の展覧会「日本美術の裏の裏」(2020年)は、とても斬新な展示方法で衝撃を受けました。作品を並べて難しい解説をつけるのではなく、あえて詳細な説明は設けずに、鑑賞者自身がその作品を見てどう思ったかを問いかけるようなキャプション(説明文)がつけられていたのです。
また、江戸東京博物館には、ハンズオンの、手で触れられる展示がありますが、そうした体験を通して、この作品はどういうふうに使われていたのかを知るのも楽しいですよね。
作品の保存の観点から実現はなかなか難しいですが、私が子どもの頃にお寺で白隠の達磨図の掛け軸を見ていたように、展示ケースなしで間近に見ることができたらいいですよね。隔てるものがあると遠く感じてしまいますから。
そうした楽しめる展示というのは、すごくすてきだと思います。私としても、来館者が作品と初めて対面したときに楽しめるよう、導いていくような活動をしていけたらと思っています。
◇ ◇ ◇
ダ・ビンチの名画を見た衝撃から学芸員を志し、やがて幼少期から親しんだ白隠に立ち返ったという柿澤さん。これからの夢や美術館の可能性についても、生き生きと話してくださいました。作品との「ファーストコンタクト」を大切にするというお話をヒントに、みなさんも日本美術を楽しんでみてはいかがでしょうか。
【柿澤 香穂(かきざわ・かほ)】生まれは東京都(1995年)、育ちは静岡県。青山学院大学文学部比較芸術学科卒。2019年、早稲田大学大学院文学研究科(美術史学コース)修士課程修了。東京都美術館勤務(2018~20年)を経て、20年より、德川記念財団学芸員。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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