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2023.8.29

「80歳からでも進化する」― 文楽 豊竹呂太夫「若太夫」を来春襲名

人形浄瑠璃文楽の太夫、豊竹とよたけ呂太夫ろだゆうが来年〔2024年〕4月、祖父・十代豊竹若太夫の名跡を襲名する。初代は江戸時代に竹本座と人気を二分した豊竹座の創始者で、名跡復活は57年ぶりとなる。力強く、豪快な語り口で「命懸けの浄瑠璃」と評された祖父の芸に刺激を受けて、さらなる高みを目指す呂太夫に、襲名への意気込みを聞いた。(読売新聞編集委員・坂成美保)

祖父の名跡57年ぶりの復活

「目に見えない力に支えられて今がある。自分の引き出しを全部開けて、学んだすべてを動員して浄瑠璃を語っていかなあきません」と決意を語る豊竹呂太夫=いずれも河村道浩撮影

とよたけ・ろだゆう

1947年、大阪府生まれ。66年、都立小石川高校卒業。67年、祖父の死去に伴い、竹本春子太夫に入門し、祖父の幼名・豊竹英はなふさ太夫を名乗る。69年、竹本越路太夫門下に。2017年、六代呂太夫を襲名。22年から切場語り。

横綱

「お前のじいさんはな、ほんまの太夫やった」「じいさんは横綱やった。わしなんか小結やで」。八世竹本綱太夫、竹本越路こしじ太夫ら、若き日に薫陶を受けた名人たちは口々に祖父を絶賛した。偉大な祖父への憧れが56年の舞台人生の支えでもあった。

入門したのは祖父の死後で、直接稽古を受けた経験はない。都立小石川高校では東京大学受験を目指しながら、大江健三郎や庄野潤三、アラン・ロブグリエらの小説に心酔し、自らも小説家を夢見ていた。文芸誌の新人賞に応募したが一向に芽は出ないうえ、受験に2度失敗し、「中ぶらりんの自分を変えたい」と、20歳で文楽の世界に飛び込んだ。

若太夫(右)は大の野球好きで知られた。文楽一座の対抗戦で(左は弟子の五代呂太夫) =六代呂太夫提供

十代豊竹若太夫

1888~1967年。徳島県生まれ。1950年に若太夫襲名。62年に人間国宝。理知的、心理的な表現が主流になる中、古風で豪放な語り口で、常に全身全霊でぶつかる「叫びの義太夫」と評された。「酒屋」などの世話物でも名演を残した。

自宅のリビングには、ポスター大に引き伸ばした祖父の写真を飾っている。写真に向き合い、舞台の録音テープを聞くのが日課だ。2017年に祖父の前名・呂太夫を襲名して以降、「寺子屋」「熊谷陣屋」「摂州せっしゅう合邦辻がっぽうがつじ」「尼ヶ崎」など祖父の当たり役に次々挑み、昨年4月、太夫の最高位「切場きりば語り」に昇格した。

祖父の弟子で、50歳代で亡くなった五代呂太夫を兄と慕ってきた。「今も兄さんに基本を教わった時の録音テープを聞き返し、勉強しています」
使命感

演目の重要な場面を担う使命感は日に日に強まっている。呂太夫襲名後は特に、師である越路太夫の「俺とお前の喉は違う。お前はお前のやり方を見つけなさい」との言葉が思い出される。

祖父ははらが強く、高音を鋭く発する「矢声やごえ」が得意だった。最近、同じような矢声が出る瞬間が増えた。「遺伝子を受け継いでいる。骨格や声帯の特徴が似ているのかもしれない」と確信を深めている。

「寺子屋」を語る60歳代の十代豊竹若太夫。この頃は既に視力を失っていた=六代呂太夫提供

50歳代で視力を失い、晩年は床本(台本)が見えなくても語っていた祖父。その芸に触れてきた演劇評論家の内山美樹子からは「若太夫は70歳になってからも進化していた」と聞いた。最晩年の音源からは、気迫と勢いに任せた語りではなく、詞章の意味を観客に届けるきめ細かい配慮や緩急の使い分けが聞き取れる。

「襲名したら素浄瑠璃で紀尾井ホールを満員にするのが夢ですね」と語る

来年〔2024年〕4~5月の襲名披露公演中に、喜寿を迎える。襲名後の目標は既に定まった。「祖父が70歳を過ぎて進化し続けたのなら、僕は80歳からでも進化を遂げてみせよう」

(2023年8月23日付 読売新聞朝刊より)

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