東京・国立劇場の9月文楽公演(9月7~23日)は、第一部(11時開演)で、近松門左衛門の最高傑作とも言われる「心中天網島」を上演する。死へと追いやられていく恋人らと、彼らを死なすまいと奔走する家族。それぞれの愛情やすれ違いを描いた人間ドラマの見どころを紹介する。
大坂天満の紙屋の主人・治兵衛は妻子のある身ながら、曽根崎新地の遊女・小春と深い仲だった。恋敵が小春を身請けしようとするが、治兵衛には金が無く二人は心中を約束する。だが小春は、治兵衛の兄・孫右衛門に「心中は避けたい」と胸の内を明かし、立ち聞いた治兵衛は別れを告げる。実は小春は、治兵衛の妻・おさんから、心中を思いとどまるよう頼まれており、偽りの愛想づかしだった。小春の自害の意思を知ったおさんは驚き、夫に小春を身請けするよう逆に勧め、孫右衛門も心中を思いとどまらせようと治兵衛の行方を探すが……。
心中天網島は、江戸中期の享保5年(1720)に実際に起きた心中事件をもとに、近松門左衛門が書き下ろした。近松は「日本のシェークスピア」とも称され、その作品は今も文楽や歌舞伎で多数上演されている。制作を手がける国立劇場伝統芸能課の吉矢正之さんは「事件が起きた網島(大阪市都島区)の地名と、老子の言葉『天網恢恢疎にして漏らさず』(悪事を行えば必ず天罰を受ける)を組み合わせたタイトルの付け方にも近松の技巧を感じます」と語る。
当時の大阪(大坂)の町人の暮らしぶりや物の考え方が生き生きと描かれており、吉矢さんは特に、二人を何とか死なすまいと奔走する妻のおさんと孫右衛門に注目する。
妻のおさんは、今で言う浮気相手の小春に手紙を書き、小春はそれで身を引くことを決める。やがて小春が死のうとしていることを悟ったおさんは、何と自分の着物などを売って夫に身請けを促すという行動に出る。「今の感覚ではなかなか理解しづらいですが、同じ男性を愛する者同士、一度は別れてくれた女性を殺してはいけないという『女の義理』を大切にします。彼女の温かさや、当時の人々の価値観が感じられます」
一方、兄の孫右衛門は、治兵衛の子を背負って行方を捜すが、会えずじまい。「子どもは治兵衛のこの世への未練の象徴です。我が子を見ながら、治兵衛は死へと向かう。生と死が表裏一体になっています。弟を思いながらその子を背負う兄の心情を想像すると、胸をえぐられそうです」と吉矢さん。
物語は悲劇へと突き進んでいく。身請けの資金を作ろうと用意を始めた直後、父親が現れておさんは実家に連れ戻されてしまう。おさんの計画は水の泡。「善意に満ちた人々が努力をし、本当は助かるかもしれなかったのに、あと一歩のところでうまくいかない。運命の酷薄さを感じます」
個性的な登場人物からも目が離せない。物語の序盤に登場する恋敵の太兵衛は、ほうきを三味線に見立てて即興の浄瑠璃で治兵衛をからかう、どこか憎めないキャラクター。紙屋で働く三五郎は、失敗ばかりでおかしみがある。緊張感ある芝居の中で、ほっと一息つけそうだ。「多彩な人が登場するので、身近にこういう人がいるかもと探しながら見るのも楽しみ方の一つです」と吉矢さんは勧める。
「河庄の段」を語るのは中堅の太夫、豊竹呂勢太夫さん。「『河庄』は大曲であり、呂勢太夫にとっては挑戦ですが、三味線の人間国宝・鶴澤清治が自分の学んだことを彼に伝えたいという思いで稽古に臨みます。清治の経験が呂勢太夫を引き立てることでしょう」。心中を決定づける緊迫感ある「大和屋の段」は、今年7月に人間国宝に選ばれた豊竹咲太夫さん。人形は、小春を吉田和生さん、治兵衛を桐竹勘十郎さん、孫右衛門を吉田玉男さんらベテランがつとめ、次の世代の担い手の一人である吉田勘彌さんがおさんにチャレンジする。
吉矢さんは「当代の文楽の規範となるような、素晴らしい天網島になると思います。近松の流麗な文章、美しい音楽と共に、迫力ある舞台をぜひ劇場で味わっていただきたいです」と話していた。
(読売新聞紡ぐプロジェクト事務局 沢野未来)
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