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2022.11.8

【利休とゆかりの茶人(中)】 信長茶会 メディア戦略

これからは織田信長の時代だ――。中国・江南の静かな風景を描いた一幅の絵は、さぞ雄弁に語っていたことだろう。

13世紀、中国・南宋時代の禅僧、牧谿もっけいの筆による墨画、「遠浦えんぽ帰帆図きはんず」。左下に足利義満の鑑蔵印が押された将軍家自慢のコレクションは、天下統一をうかがう信長の手に渡る。信長が京都の妙覚寺で開いた茶会でも披露されたようだ。

本能寺に残る信長ゆかりの茶器(京都市中京区で)

「信長にとって茶会は、権力関係を知らせるメディアだった。自身が将軍家にかわる権威だと示したかったのだろう」。「お茶と権力」の著書がある大日本茶道学会会長の田中仙堂さん(64)が解説する。相手の名物を己のものにすることで勝利を確認し、広く喧伝けんでんする。それが信長流のメディア戦略だった。

茶頭に抜てきされた千利休は、信長へ戦陣の見舞いに鉄砲の弾を贈るなど、ある種の権力志向があったというのが田中さんの見立てだ。「当時の茶人にとってはコンテストに優勝するようなものだったのでは」。ウィンウィンの関係は1582年、本能寺の変で終わりを迎える。

信長の死後、秀吉の命で今の寺町通御池下る(京都市中京区)に移転した本能寺。大寶殿だいほうでん宝物館では、変の前夜、突如鳴いて異変を知らせたとされる香炉「三足のかえる」が出迎える。やはりゲコゲコと鳴いたのだろうか。信長はアルコールを受け付けない「下戸げこ」だからこそ茶に傾倒したという一説を、同寺塔頭たっちゅう龍雲院・簗瀬やなせ城諒じょうりょう住職(60)から教わった。

宝物館に残る信長所持と伝わる茶器は飾り気がなく、純粋な茶への愛も感じられる。平和な世界の象徴・麒麟きりんを花押に用いた信長。「茶をうまく使い、心を一つにする。『一味同心いちみどうしん』で平和な世界を目指したのでしょう」

惜しむらくは、信長が集めた名物茶器のほとんどが本能寺の変で焼失したことだ。「好奇心旺盛な信長のこと。これが権威の象徴なのか? そんな純粋な興味で眺めたのでしょう」と田中さん。災禍を逃れたいくつかの名物の一端は、幸い、今でも目にすることができる。

(2022年10月23日付 読売新聞京都版より)

 
 

「有楽好み」柔らかな美

 

京都市東山区にある建仁寺の塔頭たっちゅう正伝永源院しょうでんえいげんいん。明治の廃仏毀釈はいぶつきしゃくを受け、「正伝院」「永源庵」という両寺が一つになった。

「織田有楽斎像」
狩野山楽画 古澗慈稽賛
(正伝永源院蔵)

江戸初期に正伝院を中興したのが、織田信長の実弟で、千利休に茶の湯を学んだ織田長益だ。東京・有楽町の地名の由来になった有楽斎の名でも知られ、手がけた茶室「如庵」は国宝に指定されている。今も正伝永源院には、有楽斎が創始した「有楽流茶道」が、ゆかりの茶道具とともに受け継がれている。

織田有楽斎作「茶杓 銘 落葉」
(正伝永源院蔵)

「型にとらわれすぎず、客に窮屈な思いをさせない。武将らしくない柔らかで穏やかな茶風が、有楽斎の人となりを伝えています」。12月に住職と家元を継ぐ副住職の真神啓仁さん(45)が、笑顔で話す。

有楽斎に思いをはせながら茶をたてる真神さん(京都市東山区で)

有楽斎には、別の呼び名がある。本能寺の変で信長の長男・信忠と行動を共にせず、二条御所を脱出。残された信忠が自害したため、後世、「逃げの有楽」と言われた。

禅宗の修行を終え、26歳から本格的に茶道を学んだ真神さんは、お点前や茶道具、書などを通して「有楽好み」の美意識の高さを知り、「逃げたのではなく、戦国の世を生き抜いて何かを残そうとした」と確信したという。

正伝永源院にある有楽斎の墓(京都市東山区で)

没後400年に合わせ、茶道を学ぶメンバーらと実行委員会を結成。11月13日に遠忌法要と茶会を営み、来年4月に京都文化博物館、再来年1月には東京・サントリー美術館で、寺宝を中心にした有楽斎展を開催する。「様々な語られ方をしてきた有楽斎の姿を捉えなおしたい」と真神さんは語る。

豊臣秀頼の母・淀君のおじに当たる有楽斎は、戦国最後の戦いとなった大坂の陣で大坂城にあった。豊臣家滅亡を防ごうとした穏健派と伝わるが、主戦派に押され、落城前に城を出て新たな世の始まりを見届けた。

真神さんが、有楽斎展のサブタイトルにする句を教えてくれた。有楽斎の生き方を表したという。

「鳴かぬなら 生きよそのまま ホトトギス」

(2022年10月24日付 読売新聞京都版より)

 

特別展「みやこに生きる文化 茶の湯」
(京都国立博物館)
公式サイトはこちらから

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