2021.9.17

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 11-下 野田麻美さん(静岡県立美術館・上席学芸員)

狩野栄信「楼閣山水図屏風」

静岡県立美術館(静岡市)の野田麻美・上席学芸員へのインタビュー。今回は、社会人経験を経て研究の道に進んだ経歴や、膨大な資料と向き合う研究についてお話ししてくださいました。

迷いながら研究の道へ

―絵にまつわる子どもの頃の思い出はありますか?

高校時代に、ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館、東京・京橋)で見たコローの風景画が心に残っています。日本の文化では、自然は身近で親しみを感じる存在だと思いますが、その絵を見て、ヨーロッパの自然は暗くて怖いなと感じて。自然を服従させるなかで資本主義が発展したという歴史があるからなのか、日本とは違う感性なのだろうと思って、その違いや理由を学んでみたいなと、何となくですが、思っていました。とはいえ、大学受験のときには、「将来何になろう」といったことは考えていなかったですね。

-東京大学に入学されて、最初の2年間は教養学部で、3年生から専門分野に分かれたのですね。

私は明確な目的もなく、歴史が学べるどこか、という、ふわっとした感じで美術史を選んだので、研究対象を決めるところから時間がかかりました。そうしたなか、板倉聖哲まさあき先生(中国絵画研究者)や佐藤康宏先生(江戸絵画研究者)が、講義や展覧会の見学で作品に対する鋭い見方を示してくださるのがすごく面白くて。大学院に進みたいと思ったのですが、父に学芸員は狭き門だからと反対されて、どうしても進学したいのなら、自分で稼いだ金で行けと。それで、大学卒業後に一度、就職することにしました。自分としても、研究者として生き残れるのかという不安もあり、ともかく一度社会に出て、改めて本当に学芸員になりたいのか考えようと思いました。ですが、その頃はひどい就職氷河期で、就職活動は本当に大変でしたね。

静岡県立美術館で2021年に開かれた「忘れられた江戸絵画史の本流」「江戸狩野派の古典学習」 展の様子(同館提供)
宝になった社会人経験

どうにかキヤノンに就職したのですが、勤め始めたら仕事がすごく楽しくて、大学に戻るかどうか迷いました。自分の思いを確かめるためにも、週に一度は早めに仕事から帰って、美術書を読む習慣を続けていましたね。ずっと展覧会にも行っていなかったのですが、久しぶりに行った東京国立博物館で、狩野山楽さんらく(安土・桃山~江戸時代初期、狩野永徳に学び、豊臣秀吉に仕えた)の絵を見て心震えたのを覚えています。

その後、やはり研究に戻ることにして、1年間、東大で研究生をしたあと、大学院に入り、山楽を研究しました。キヤノンに勤めたのは2年足らずでしたが、上司や同僚がすごく良くしてくださって、今でも交流が続いています。勤めた経験は、今、私が取り組んでいる研究で、大きな組織として江戸狩野派を考えることにもすごく役立っていると感じています。

感動を掘り下げる

-山楽のどんな部分に引かれたのですか?

最初は純粋な衝撃でした。特に好きなのは、京都・大覚寺の襖絵ふすまえ「紅白梅図」や「牡丹ぼたん図」です。私の場合、すごく好きな作品に出会うと、いつでも最初は言葉にできないぐらいの感動があって、「なぜ、こんなに心が動かされるのだろう」と、それを言葉にするために研究していきます。

狩野永徳えいとく(安土桃山時代、織田信長や豊臣秀吉に仕えた狩野派のリーダー)の絵は、力強くて、底なしに明るいのですが、山楽の絵はそれだけではないなと感じて、私はその「それだけではない」要素に引かれているのだなと思いました。研究を続けるうちに、山楽は、理知的で優美で力強い狩野光信みつのぶ(永徳の長男)の作風から強い影響を受けたために、パワフルさとエレガントさの両方を備えていて、そのバランス感覚が秀逸なのだと思い至りました。

江戸狩野派の研究へ

大学院卒業後は、群馬県立近代美術館(群馬県高崎市)に就職し、2014年に「探幽3兄弟展 -狩野探幽たんゆう尚信なおのぶ安信やすのぶ」を開催しました。この展覧会は、東京の板橋区立美術館との共催だったので、狩野派研究の第一人者である安村敏信としのぶ先生(企画発足時、板橋区立美術館館長)や、佐々木英理子さん(当時・同館学芸員、現・永青文庫学芸員)の導きのもと、必死についていくような感じでした。

その後、静岡県立美術館に移りました。狩野派には伊豆出身説があるため、当館は江戸時代の狩野派の作品を長年にわたって収集しています。私は群馬にいたときから、いつか、狩野栄信ながのぶの作品をメインにして、江戸末期の狩野派の展覧会をやりたいと考えていました。それを実現したのが、「幕末狩野派展」(2018年)です。赴任してきて「やっと憧れの作品をガラス越しではなく、じかに見られた」と感動しましたね。

―幕末狩野派展では、栄信と、その息子・狩野養信おさのぶの作品を軸に展示されたのですね。

養信に関しては、それ以前から研究が進んでいて評価も高く、展覧会も開かれていました。その父・栄信についても、養信のスタイルを先駆けるような基本を作ったという評価はされていたのですが、本格的な研究や展覧会は行われていませんでした。

それまでは、養信がやまと絵の古典学習をしていた点が重視されていました。けれども、栄信の作品と中国絵画を見比べていくうちに、「まず栄信が中国絵画の古典を研究しており、それを養信が引き継いで広げるなかで、やまと絵の古典の研究もした」という位置づけのほうが正確だろうと考えるようになりました。もともと狩野派は、和漢でいうと、漢画の流れをくむ流派ですから、中国絵画の研究を熱心にしていたという点をもっと評価したほうがいいと思ったのです。

静岡県立美術館・ロダン館(静岡県立美術館提供)
静岡県立美術館・ロダン館(静岡県立美術館提供)
3000点近くの絵をデータ化

―野田さんのご研究は、狩野派、中国絵画、やまと絵と、膨大な量の絵画を見比べて、ひとつずつ関連を探っていくという、気が遠くなるような作業ですね。

これまでに2750図を超える倣古図ほうこず(伝統的な図柄を模写した絵)のデータを入力してきました。今の美術史学では、発想力がカギとなる研究が多いので、私は最初、研究者としてあまり自信を持てなかったのですが、私にはそうした研究スタイルより、一つ一つのデータや知識を積み重ねて、成果を出していくほうが合っているなと思って。時間も労力もかかりますが、着実に前に進めるほうが心強いですね(笑)。

よく「覚えるのが大変でしょう」と言われます。たしかに最初の1000図ぐらいまではつらかったのですが、だんだん「あの絵はこの絵を参照して描かれたのだろう」といった絵同士の関係性が見えてきて、頭の中で整理されてきました。特に、栄信はキーパーソンなので、栄信を調べるといろいろな情報がつながっていきます。栄信が作った数多くの倣古図を見た他の画家が、新たに作品を作っていったためです。

学生時代、アルバイト先の友人(現在は大学の教員)が全員の1か月の出勤日を覚えていたので、どうしてか驚いて聞いたら、「パズルのようにすべてがピースとしてはまっているので、その記憶の一部分が抜け落ちたりしない」と言われて。その時は理解できなかったのですが、今になってその意味が分かってきましたね(笑)。

江戸狩野派のすそ野はとても広く、各地方にいた絵師にまで研究が行き届くのは、数十年先ではないかと思います。過去に開催された江戸狩野派の(各家の当主の)個展は、大規模なものは探幽ぐらいで、5、6点の作品がまとめて展示されたことがある絵師ですら、10人ほどしかいません。そうしたなか、「忘れられた江戸絵画史の本流 —江戸狩野派の250年」展と「江戸狩野派の古典学習—その基盤と広がり」展(共に静岡県立美術館、2021年)では、80人の江戸狩野派による作品を展示して、栄信作品の魅力を、江戸狩野派のなかで紹介することを試みました。これからも、栄信を始めとする江戸狩野派の作品紹介を続けていきたいと思います。

◇ ◇ ◇

野田麻美・静岡県立美術館上席学芸員(鮫島圭代筆)

野田さんの研究は、大変な労力をかけた地道な作業の積み重ねであることが、ひしひしと伝わってきました。「上」で語ってくださった、狩野栄信の愛されるリーダー像や組織力のお話には、興味を持たれたビジネスパーソンも多いのではないでしょうか。ぜひ、そうしたことにも思いをはせながら、 狩野派のさまざまな絵画を眺めてみてください。

【野田麻美(のだ・あさみ)】1979年生まれ。2002年、東京大学文学部歴史文化学科(美術史学)卒業。02~03年、キヤノン株式会社勤務。07年、東京大学大学院人文社会系研究科(美術史学)修士課程修了、10年、同博士課程満期退学。10~15年、群馬県立近代美術館学芸員。15年より、静岡県立美術館学芸員。専門は日本絵画(近世絵画)で、主に狩野派。担当展覧会に「探幽3兄弟展 -狩野探幽・尚信・安信」(14年)、「幕末狩野派展」(18年)、「忘れられた江戸絵画史の本流 —江戸狩野派の250年」「江戸狩野派の古典学習 —その基盤と広がり」(21年)など。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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