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2021.9.17

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 11-上 野田麻美さん(静岡県立美術館・上席学芸員) 

狩野栄信「楼閣山水図屏風」

狩野栄信「楼閣山水図屏風」 2曲1隻
1802-16年(享和2年-文化13年)
絹本着色 190.0×194.0 cm(静岡県立美術館)
「江戸狩野派の古典学習」(2021年5月18日~6月27日・静岡県立美術館)に出陳

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回お話をうかがったのは、静岡県立美術館(静岡市)の野田麻美・上席学芸員です。紹介してくださるのは、狩野栄信かのうながのぶの「楼閣山水図屏風ろうかくさんすいずびょうぶ」(静岡県立美術館)。栄信に学ぶ、愛されるリーダー像や組織づくりなど、現代のビジネスパーソンにも参考になるお話です。

見事なパッチワーク

―狩野栄信の「楼閣山水図」の魅力は? 

ひと言で言うと、江戸狩野派が目指すかっこよさを集約したところだと思います。洗練されていて、気品があります。

狩野栄信は、江戸幕府に仕えた江戸狩野派の木挽町こびきちょう狩野家の8代目当主でした。

江戸狩野派の絵は、大名が客と対面する場などに飾るため、遠くから眺めたときに「きれいだな」と思わせるように描かれています。この作品も、遠くから見ると、メリハリの利いた明るい色づかい、筆の力強さ、流麗な線などが、バランスよく響き合っています。ですが、近づいて見ても、子どもたちのかわいい表情や、水中を泳ぐ魚の透明感のある描写など、細かく描き込まれていて見飽きません。

栄信は、いくつもの古典名画の図柄をパッチワークのようにつなぎあわせて、この作品を描きました。とはいえ、ただの切り貼りではなく、憧れの、みやびやかな中国の古典名画の雰囲気を表現するために、緻密ちみつに考え抜かれています。「画面のここにこの図柄を描けば、隣の部分とのつながりがよくなる」といったバランスの計算がすごくうまいのです。

―どのような古典名画を見て描いたのですか?

画面右下の建物は、元時代の孫君沢そんくんたくの絵の図柄を用いています。孫君沢は、室町時代以来、狩野派に大きな影響を与えた画家で、「楼閣山水図」の元となった孫君沢の絵も、狩野派の絵師が写した模本が東京国立博物館に伝わっています。狩野惟信これのぶ(栄信の父)は、そうした絵を見て「山水図押絵貼屏風さんすいずおしえばりびょうぶ」(静岡県立美術館)を描いており、息子の栄信も父にならい、その図柄を受け継いで、この「楼閣山水図」を描いたのだと思います。一方、画面左下のあたりは、宋時代の蘇漢臣そかんしんの作と伝わる絵などの図柄で、建物の向こう側の船周辺の描写は、室町時代の雪舟せっしゅうの影響だろうと思います。

(「楼閣山水図」を展示した)「江戸狩野派の古典学習」展で分かってきたのですが、栄信は、参照した中国の古典名画が、時代を経て色がくすんでいても、もとの色を想像して、メリハリのある、鮮やかで明るい色を用いています。現代でも、古い絵の模写をするときに、制作当初の色を再現して描くことがありますが、栄信は江戸時代に、現代に先がけて、そうした模写の方法をとっていたのだと思います。

「楼閣山水図屏風」部分
そっくりに描き写すこと

江戸狩野派の絵師たちは、似たような作品をいくつも作りました。現代の感覚では、代わり映えしない作品はつまらないと思われがちですが、当時は、大名のお道具として、その家の格にふさわしい内容でなくてはならず、似た作品の制作依頼がいくつもあったのだと思います。「楼閣山水図」にも、よく似た作品があったことが過去の文献から分かります。

江戸時代は、今と違って、カメラやコピーもありませんし、火災も多かったので、大名や将軍にとって、古典名画を描き写して作品に仕立てて所蔵しておくことは大変重要でした。そのため、そっくりに描き写せる絵師は重んじられたのです。狩野探幽たんゆう(江戸時代初期の狩野派のリーダー)も、例えば、王冕おうべんという元時代の画家の絵を、見事に描き写した「王冕原本 墨梅図」(個人蔵)のような作品を残しています。栄信もまた、そうした作品の制作で、天才的な技能を持つ画家でした。

―作品の複製に対する感覚が、今とはまったく違ったのですね。

近代以降はカメラ、コピー機などの複製技術の発展で、オリジナルなものへの信仰が強まり、江戸狩野派の複製技術は、マイナスに見られる傾向にありました。でも最近は、徐々に再評価が進んでいます。

世界で高まる評価

徳川幕府は、折々に、外国の君主に江戸狩野派の作品を贈りました。最近、皇帝ナポレオン3世に贈られた作品がフランスのフォンテーヌブロー宮殿で見つかり、展覧会やシンポジウムが開かれました。そうした絵はいずれも、国を代表するにふさわしい、古典名画に基づいて描かれた伝統的な画題で、第一級の画材を使っています。日本の伝統や武家の美意識を体現した華やかな作品なのです。そうした意味で、古典学習に基づいて描かれた19世紀の江戸狩野派の作品が、世界的に再評価されつつあります。

江戸狩野派の作品は似たものが多く、伊藤若冲じゃくちゅうなど、18世紀の京都で活躍した個性の強い画家に比べて、つまらないと思われがちですが、私は、安定した技術で高品質の作品を大量に作る江戸狩野派のシステムは偉大だと思います。それこそが、世界的に認められている日本のモノづくりの素晴らしさの一面だと思うのです。

静岡県立美術館・本館(静岡県立美術館提供)
今の大企業に置き換えてみる

私は、大学院に進む前に、キヤノンで会社員をしていたのですが、そこでの経験がもとになって、江戸狩野派を、組織という側面から考えるようになりました。キヤノンでは多くの事業部がお互いにしのぎを削っていたのですが、江戸狩野派もまた大きな組織で、奥絵師4家(中橋狩野家、鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、浜町狩野家)と表絵師が12家ほどあり、家同士で対抗意識を持っていました。

一般的には、江戸狩野派は探幽没後、衰退の一途をたどったと説明されることが多いのですが、江戸狩野派の内部だけを見れば、大名家の発展に伴い、注文も激増し、各家がどんどん発展して、活動の地盤も強固になりました。今に置き換えれば、着実に利益が上がっていて、社員も増やしている大企業のようなものです。でも、組織が大きくなって、いわゆる「大企業病」にかかった時、もし、他社がものすごい勢いで伸びてきていたら、何かしなくてはと思いますよね。

栄信にとってのそうした他社とは、谷文晁たにぶんちょうの一派でした。文晁はもともと江戸狩野派で学んだ絵師で、江戸狩野派の組織のあり方をまねて勢力を広げ、ついには老中・松平定信の命を受けて、全国の古画を弟子たちとともに調査しました。元来、そうした仕事は江戸狩野派のものでしたから、栄信は大いに危機感を持ったと思います。栄信以前の江戸狩野派は、本家の当主が自分の子どもに絵の技術を秘伝で伝え、血族以外の絵師は、江戸狩野派内にいても、大名などが持っている古典名画を見るチャンスもほとんどありませんでした。栄信は、文晁一派の目覚ましい活躍を機に、狩野家の血族だけに技術や情報を伝える体制を改革して、自らの模写の技術を江戸狩野派内で幅広く普及させ、古典名画を写す仕事に有能な弟子たちも参加させるようになったのではないかと。こうして古典名画の情報を、大規模に、効率的に集めたことで、さまざまな古典名画のイメージをちりばめた「楼閣山水図」のような作品も誕生したのだと思います。

18世紀の奥絵師と表絵師の作品を見比べてみると、表絵師各家の画風は様々な形で展開していることがわかります。現代に置き換えれば、大きなグループ企業で、子会社が自分たち独自のやり方で進めていった結果、いつの間にか親会社と異なる方向性になっていたのでしょう。栄信は、それを同じ方向に軌道修正しました。指示するだけではついてこないので、表絵師でも実力があれば、江戸城などの大きな仕事に登用するなどの抜てきで、実際に一緒に仕事をして、自らの方針を具体的に共有してもらっています。こうしたことがきっかけで、子会社の人たちも親会社の色に染まる、というような現象が起こったと考えられます。

静岡県立美術館で2021年に開かれた「忘れられた江戸絵画史の本流」「江戸狩野派の古典学習」 展の様子(同館提供)
知識、技術の共有

リーダーが、皆から共感を得て、大きな仕事を成し遂げるためには、まずは自分が苦労して得てきた知識や技術を惜しみなく共有することが大切なのだと思います。血縁で受け継がれてきた狩野派という集団でそういう考え方ができた栄信は、すごいですよね。探幽は偉大な天才でしたが、自分と同じように描ける人を育てられませんでした。一方、栄信は周りの人にすごく支持され、愛されていたからこそ、自分の絵のスタイルが、高いクオリティーで周囲に広まっていったのでしょう。

栄信の長男、狩野養信おさのぶは木挽町狩野家を継ぎ、その弟たちのうち2人は浜町狩野家と中橋狩野家にそれぞれ養子入りして各家の当主となり、父のスタイルをよく伝えました。江戸狩野派にはほかにも、3兄弟で活躍したケースがありますが、ここまで見事に父の画風を継いだのは、栄信の子どもたちだけです。

こうした観点で見ていくと、例えば、(池井戸潤の)「下町ロケット」や「半沢直樹」が好きな人は、特に江戸狩野派を楽しめるのではと思います。「下町ロケット」の人気キャラクターである財前さんは大企業にいながら、下町の中小企業の部品を使おうと、様々な障害を乗り越え、企業の垣根を越えて奔走します。財前さんのように、栄信は、奥絵師と表絵師の間にあった厳然たる垣根を乗り越えて、江戸狩野派を一つにまとめていったのだと思います。

私は、そうした栄信の人柄も尊敬しています。懐が深くて広く支持され、周りの人たちを巻き込んでいく、大企業の社長のようだなと思うのです。こうした大きな組織での人間模様は、現代の企業にも通じる点が多く、美術館のギャラリートークでお話しすると、多くの方に興味を持っていただけます。

◇ ◇ ◇

野田麻美・静岡県立美術館上席学芸員(鮫島圭代筆)

「友人からは、絵師の誰と誰がつながっているとか、芸能リポーターみたいな研究の仕方だね、とよく言われるんです」と、ほがらかに話す野田さん。そうした絵師たちの人間模様をうかがうと、作品もより身近に感じられてきますね。次回は、社会人経験を経て学芸員となった経緯や、膨大な調査に基づく研究スタイルなどを伺います。

わたしの偏愛美術手帳 vol. 11-下に続く

【野田麻美(のだ・あさみ)】1979年生まれ。2002年、東京大学文学部歴史文化学科(美術史学)卒業。02~03年、キヤノン株式会社勤務。07年、東京大学大学院人文社会系研究科(美術史学)修士課程修了、10年、同博士課程満期退学。10~15年、群馬県立近代美術館学芸員。15年より、静岡県立美術館学芸員。専門は日本絵画(近世絵画)で、主に狩野派。担当展覧会に「探幽3兄弟展 -狩野探幽・尚信・安信」(14年)、「幕末狩野派展」(18年)、「忘れられた江戸絵画史の本流 —江戸狩野派の250年」「江戸狩野派の古典学習 —その基盤と広がり」(21年)など。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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