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2021.10.19

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 14-上 福井麻純さん(細見美術館主任学芸員)

中村芳中「白梅小禽図屛風」

中村芳中「白梅小禽図屛風」
6曲1隻 紙本金地著色
江戸後期(細見美術館)

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回お話をうかがったのは、細見美術館(京都市左京区)の福井麻純・主任学芸員です。紹介してくださるのは、江戸時代に大阪で活躍した琳派りんぱの画家、中村芳中なかむらほうちゅう(生年不詳~1819年)の「白梅小禽図屛風はくばいしょうきんずびょうぶ」(細見美術館)。ゆるくてカワイイ、その奥深い魅力に迫ります。

かわいい子犬に引かれて

―中村芳中の絵に出会ったのはいつですか?

大学院生のときです。大坂画壇の研究をされている中谷伸生なかたにのぶお先生から、大坂の琳派をすすめられて、私自身、尾形光琳おがたこうりんなどの有名な大作よりも、ゆるい雰囲気の作風がいいなと思っていたので、中村芳中の研究を始めました。

単純に、芳中の子犬の絵がかわいかったということもあります(笑)。今は日本美術の展覧会や美術書に「かわいい」という表現がよく見られますが、当時はまだ、美術作品に対して「かわいい」という主観的な言葉は使うべからず、という雰囲気でした。その後、キティちゃんが外国で kawaii と言われるようになり、より広く使われるようになって、「かわいい」という感覚が、日本美術の特徴のひとつ、というと、言い過ぎかもしれませんが、そうした視点が浸透してきたと思います。

光琳のエッセンス×大坂の文化サークル

―最初はどの作品を研究されたのですか?

光琳が没してから100年ほど後に、芳中が光琳風の絵を描いてまとめた版本「光琳画譜」(1802年)です。理由はわかりませんが、芳中はわざわざ大坂から江戸に出向いて、この本を刊行しました。動物や人物の絵がかわいらしくて面白いのですが、光琳画そのものとは異なる印象なので、そうした作風が生まれた背景が気になりました。

光琳は琳派の巨匠ですが、絵画のほかに、工芸デザインも手がけています。作品数はそれほど多くありません。そのため、光琳のデザインを取り入れた光琳菊、光琳波、光琳梅などの「光琳模様」と呼ばれる意匠が着物のひな型本や漆器の意匠集などに用いられ、刊行されたのです。有名な光琳の名がつけば、みんなが「おおっ」と思ったのでしょう。光琳亡きあと、光琳模様は一般に広く活用されました。

芳中は、光琳模様などのゆるい作風や、琳派伝統の「たらしこみ」という絵画技法を取り入れたと言えます。一方、同時代の江戸には、洗練された絵画としての光琳を継承しようとした酒井抱一さかいほういつがいました。ともに光琳の流れをくみながら、解釈が全く違う2人が、大阪と江戸でそれぞれ活躍していたのです。琳派にはこのように、後の時代の人がそれぞれ好きにエキスを吸い取っていったという特性があります。

その一方、大阪の画家・大岡春卜しゅんぼくがまとめた「画本手鑑」(1720年)などによると、鳥羽僧正とばそうじょう(平安時代)や松花堂昭乗しょうかどうしょうじょう(江戸時代初期)といった、特定の流派に属さず、肩肘張らない、自ら楽しんでゆるい絵を描いたとされる人たちと、光琳や宗達が同じくくりのなかで評価されていました。そうしたなかで登場したのが芳中でした。

芳中は、当時の人名録にも名前が載るような絵師でしたが、どこか遊びの延長というか、気楽な感じだったと思います。大坂には、コレクターで趣味人の木村蒹葭堂きむらけんかどうを中心とした文化サロンがあり、「蒹葭堂日記」には、芳中の名前も出てきます。おそらく芳中は、絵師の家に生まれたわけではなく、ある程度、裕福で、古美術を見たりしながら、「光琳風に描くならこんな感じ」というふうに描き始めたのだろうと思います。趣味人に囲まれて俳諧も楽しんだので、軽妙でユーモラスな画風には、その影響もあるのでしょう。

ゆるカワな鳥

―「白梅小禽図屏風」は、そのセンスが存分に発揮された作品ですね。見どころを教えてください。

芳中が描く動物は、このように口を開けているものが多いです。ちょっと、ほうけた感じでかわいいですよね。目はただの黒い点で描かれていて、けなげな印象です。数年前、「ゆるカワ」という言葉をよく聞きましたが、この鳥こそ、まさにゆるカワだと思います。日本人のキャラ好きな感性がうかがえますね。

幹は、薄い墨で描いた上から濃い墨をかけ、ところどころに緑青という緑の絵の具をつけてにじませています。これは琳派の絵師がよく用いた「たらしこみ」という技法で、芳中がとりわけ得意とした技法でした。水分たっぷりに描いているので、部分的に下の金地が透けて見えます。

梅の花は光琳の描き方にならい、形を大まかにとらえています。マシュマロのようにむにゅっとしていますね。雌しべは金泥で描き、花の輪郭はくっきりしています。太い輪郭線や、背景を省いてモチーフを大胆に配置する構図は、芳中の特徴です。芳中の屏風作品は少なく、金地の屏風は、このほか大英博物館所蔵の「四季草花図しきそうかず屏風」しか知られていません。豪華ですが、実のところ芳中は、こうした大画面より、もっと軽い感じの小さな絵のほうが得意で、当時の需要もそちらにあったと思います。

中村芳中 扇面画帖より「牡丹」
1帖のうち 紙本著色
江戸後期(細見美術館)
中村芳中 扇面画帖より「立葵」
1帖のうち 紙本著色
江戸後期(細見美術館)
お得意のたらしこみ

―そうした小品の作例が、こちらの「扇面画帖せんめんがちょう」の「立葵たちあおい」や「牡丹ぼたん」ですね。

ええ、「扇面画帖」は、芳中が扇面形の紙に描いた絵を、後に画帖に貼り付けたものです。たらしこみの技法を最大限に使い、画面からはみ出さんばかりですよね。余白を残すとモチーフの印象が弱まるので、できるだけ大きく描いたのだと思います。葉は輪郭を引かずに、たっぷりとたらしこみを用いています。花も輪郭線がないように見えますが、実は薄い墨でいれています。ごく薄い墨をたっぷりと筆につけて描いたので、墨の粒子が自然と縁に寄ったのでしょう。面白い技法ですよね。芳中は、初期には、筆を使わずに手指などで描く「指頭画しとうが」を手がけており、そうした変わった技法を人前で披露するような、ちょっとおどけた性格だったのかもしれません(笑)。

以前、ある画家のかたが、「芳中の絵は素人っぽいとよく言われますが、実は相当、時間がかかる絵ですよ」とおっしゃっていました。この花も、一気に描いたように見えますが、実際には、輪郭線が乾くのを待ってからでないと色が混ざり合ってしまうので、花びらの色がつけられませんし、にじみすぎないように気を配りながら描いたのだと思います。

◇ ◇ ◇

福井麻純・細見美術館主任学芸員(鮫島圭代筆)

かわいらしくてほっこりする芳中の絵。福井さんの解説で、その奥にある、琳派の伝統や大坂の文化人サークルのなかで育まれたセンスやユーモアが見えてきました。次回は、福井さんが琳派に魅せられることになったきっかけ、そして、もうひとりのオススメ画家、神坂雪佳かみさかせっか(1866年~1942年)の魅力に迫ります。

わたしの偏愛美術手帳 vol. 14-下に続く

【福井麻純(ふくい・ますみ)】名古屋市出身。2002年、関西大学大学院文学研究科博士課程後期課程単位修得。同年から、細見美術館学芸員(現・主任学芸員)。中村芳中、神坂雪佳を中心に研究を行う。「愛媛県美術館所蔵 杉浦非水 モダンデザインの先駆者」(2017年)、「石本藤雄展 マリメッコの花から陶の実へ —琳派との対話—」(19年)、「琳派展21 没後200年 中村芳中」(19年)ほか、館蔵品展の企画などを担当。著書に「神坂雪佳 ― 琳派を継ぐもの ―」(東京美術、15年)、共著に「光琳を慕う 中村芳中」(芸艸堂、14年)。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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