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2020.5.8

【大人の教養・日本美術の時間】日本スター絵師列伝 vol. 2 円山応挙

応挙の竜(鮫島圭代筆)

江戸時代を代表する絵師のひとり、円山応挙まるやまおうきょ。その作品には、穏やかで上品な美しさがあります。

でもその実、応挙は革命児でした。

みなさんは、目に見えるものが本物らしく描かれた絵を見ても驚きませんよね。

しかし、応挙の登場以前は違いました。それまで風景画といえば、物語の一場面や中国の山水風景などだったのです。

つまり応挙の新しさは、身近な物や風景をリアルに描こうとしたこと。「写生派の祖」と呼ばれるゆえんです。

玩具屋の小僧から一流絵師へ

応挙が生まれたのは、江戸時代中期の1733年。京都の町なかから西へ20キロ余り離れた丹波国の農村 (現・京都府亀岡市曽我部町穴太) です。

生家は貧しい農家だったようです。8歳頃、地元の寺に修行に入り、10代前半で京都に出たと伝わります。最初の奉公先は呉服屋で、その後、ガラス製品や人形などの玩具おもちゃ骨董こっとうを販売する尾張屋の小僧になりました。働くかたわら、10代後半の短い時期、狩野派の流れをくむ絵師のもとで修業したといいます。

20代後半には、尾張屋で売る「眼鏡絵めがねえ」の制作を手がけました。

眼鏡絵とは、遠近法で描いた風景画で、ガラスのレンズを取り付けた「のぞき眼鏡」を通して見ると、より立体的に見えるというものです。

現代の私たちは、近くのものを大きく、遠くのものを小さく描いた遠近法の絵を見慣れていますね。でも遠近法が伝来する以前、日本の風景画はもっと平面的でした。そのため江戸時代、長崎・出島を通じて伝来した、遠近法で描かれたヨーロッパの風景画は、人々に衝撃を与えました。そして舶来の眼鏡絵がもてはやされたのです。こうした時代にあって、応挙は身近な京都の風景を眼鏡絵に描き、空間表現を磨きました。

応挙はまた、中国の宋・元時代の華やかで緻密ちみつな花鳥画を模写し、その技法を身につけました。数え34歳から名乗るようになった「応挙」という名前には、「銭舜挙せんしゅんきょ(元代の画家)の絵に近づきたい」という思いが込められていたともいわれます。

この頃、公家ゆかりの寺、滋賀・円満院の門主・祐常ゆうじょうが応挙に目をかけるようになりました。当時、世間では博物学や解剖学、測量学などが盛んで、当代きってのインテリだった祐常も、さまざまな知識を聞き書きしたり、草花を写生したりしていました。そして、優れた画力を持つ応挙に写生を促し、作品を依頼したのです。それまで写生とはあくまで作品の下絵としてなされるものでしたが、応挙は写生したモチーフをもとに作品を描きました。こうして「写生画」が誕生したのです。応挙は身近な動物も本物らしく描き、鳥の羽の一枚一枚、毛の一本一本まで写し取りました。ころころと戯れる愛くるしい子犬は、お得意の画題です。

応挙の子犬(鮫島圭代筆)

祐常亡きあと、40代以降の応挙の制作を支えたのは、地方出身の裕福な新興商人たちでした。彼らは、京都の伝統的なテイストとは異なり、新しくて純粋に美しい応挙の写生画にひかれたのです。中でも、最大のパトロンは三井越後屋でした。三越の前身です。それゆえ、三井記念美術館(東京・日本橋)には応挙の代表作が伝わっています。

成し遂げた数々の革新

54歳頃に手がけた国宝「雪松図ゆきまつず屏風びょうぶ」は、日本美術史上、記念碑的な作品です。

それまで日本の風景画といえば、『伊勢物語』など古典文学の一場面や定番の名所絵、あるいは中国の絵を手本にした異国の山水風景でしたが、応挙は純粋に、雪をかぶった松の美しさを描き出したのです。このモダンな感覚は、近代日本画の源流となりました。

「雪松図屏風」で応挙は、大きな松の木を墨の濃淡を駆使して立体的に描き、枝に余白を残すことで降り積もった雪を表しました。地面には細かい金砂子きんすなごを散らして陽光を浴びてきらめく雪を、そして背景には金泥きんでいを塗っててつく雪の日の澄んだ空気を表現しました。伝統的に背景の金は装飾的に使われることが多く、こうした大気を表す使い方は革新的でした。

また、松の幹や枝を、画面の手前から奥へ、そして奥から手前へと伸ばし、中央に余白を残すことで、ダイナミックな動きや奥行きを生み出しました。2次元の屏風のなかに3次元の世界を作り上げたのです。

工房を率いて

応挙は穏やかで優しい人柄だったと伝わり、多くの弟子に慕われました。応挙の一門は円山派まるやまはといい、中でも優れた弟子10人は応門十哲おうもんじってつと呼ばれます。特に、応挙の右腕であった源琦げんきや、師の枠を超えて独自の画風を確立した長澤蘆雪ながさわろせつが有名。また、応挙の息子たち、応瑞おうずい応需おうじゅも一門で活躍しました。

応挙の工房は、社寺の障壁画など大きな仕事も請け負いました。とりわけ兵庫・大乗寺の障壁画には円山派の総力が結集されています。そうした遠方の仕事でも、応挙は自宅近くの大雲院の方丈をアトリエに使い、仕上がった作品を現地に届けさせました。旅嫌いで、生涯京都を離れなかったのです。富士山を見たこともなかったとか。それでも毎年春には、弟子や友人をともなって伏見に出かけ、梅見を楽しんだということです。

円熟の晩年

応挙が数え56歳を迎えた1788年1月、天明の大火が起き、京都の町じゅうに燃え広がりました。その再建事業にあたり、応挙の工房は、御所の障壁画制作という誉れ高い仕事に参加します。京都画壇の2大勢力、土佐派、そして狩野派と肩を並べたのです。筆一本で巨匠へと上りつめた感慨は、よほどのものだったことでしょう。

60歳を過ぎて病に侵されましたが、それでも腕利きの弟子たちに支えられ、香川の金刀比羅宮ことひらぐう表書院おもてしょいんの障壁画という大仕事をやり遂げました。

応挙の空間演出、ここに極まれり! 一番格上の部屋から襖絵ふすまえの風景画を見ると、眼下の風景を見渡すような構図になっており、床の間に描かれた滝の流れの先には、部屋の外に実際の池を眺めることができます。

最晩年まで絵筆を離さなかった応挙。63歳で世を去ったのちも、写生画の技法と精神は弟子たちへ、さらにその弟子たちへと受け継がれ、やがて近代日本画の中に息づくことになります。

応挙の作品は、大乗寺や金刀比羅宮、そして東京国立博物館(東京・上野)など全国各地に伝わっています。そうした社寺や博物館のウェブサイトで、美しい障壁画を堪能するのもおすすめです。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

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