「料」とは「器具、衣服、飲食物など、何かの用にあてる物。ある物事に使用する物」のこと(小学館『日本国語大辞典』JapanKnowledge版)。それが「料紙」となれば、文字を
そもそもの始まりは、やはり中国だ。中国では後漢の時代に紙が染められるようになり、日本へもまずこのような
奈良時代に完成した染紙は、続く平安時代、和様化された色彩感覚に叶う中間色を増やし、あるいは染めの技法のバリエーションを駆使し、
そして平安時代には、料紙装飾のもうひとつの頂点「
版木で文様を摺りだした唐紙(彩箋)の最古の遺例は、11世紀初頭の藤原行成《書巻(
やがて12世紀を迎えると、日本でも自分たちの好みに合わせた、唐紙の翻案が試みられるようになる。妙な言い方だが、この時代に「和製の唐紙」を使用した遺例は17件ほど、文様の種類は60例以上が確認されている。さらに上等の紙となれば、金銀の砂子や箔を散らし、文様を摺り出し、金銀泥で下絵を描き、紙自体を破り継ぎ、重ね継いで、と多彩な手法を駆使した装飾が施された。
こうした料紙は、紙そのものが自立して鑑賞される作品、ということではなく、あくまで書や絵を引き立て、演出する「従」の立場にある──はずなのだが、中には書き手や発注者の美意識から生まれた料紙と、時代や流儀によって変遷した書風とが、共鳴し、挑発し合い、「1+1=2」以上の爆発的な創造性を発揮する例もある。その極致といえるのが、本展に出品された西本願寺所蔵の国宝《三十六人家集》だ。
前回書いたとおり、藤原
この冊子がつくられた平安時代末期は、日本文化史上、もっとも華麗で荘厳な美が追究された時代であり、《三十六人家集》はそうした美意識の結晶とも言える。他にも仏像や装飾経、経箱などに優品が残るが、その中のひとつとして、三十六歌仙とその歌が選ばれたところに、歌仙への尊崇の念が現れている。
今回の展示には、冊子の形態のまま残った《三十六人家集》の中から、「躬恒集」「素性集」「重之集」「興風集」が出展されたのに加え、《石山切》からも3点が出展されている。「佐竹本」の分断ばかりが話題になっているが、実はこちらでは、さらに高度な──アクロバティックな「手術」が施されている。
《三十六人家集》は見てのとおり、破った紙をパッチワークのように貼り合わせる「破り継ぎ」の手法で、1枚の頁を構成している。抽象的な構成もあれば、ちぎり絵のように、山の景色を想像させる表現などもある。いずれにしても、異なる色に染めた別々の紙を貼り合わせて1枚の紙に仕立て、その裏表に和歌を書いて、冊子の形にまとめている。
ところが昭和4年(1929)、本願寺は女子大学創設のための資金をつくるため、この中の「伊勢集」「貫之集下」の2巻を分割することになった。「佐竹本」と似たようないきさつだが、これはただ糊で貼った個所を剥がしさえすればいい、というものではない。冊子の頁であるため、1枚の料紙の表裏に和歌が書かれており、どちらかを犠牲にして表具してしまう、という選択肢はあり得ないからだ。
ではどうするか。まず冊子を1枚ずつの料紙にバラし、次にパッチワークの糊付けを剥がして、断片に戻す。このパズルのピースのように不定形な1枚の和紙を、表面と裏面の2枚に分かれるよう、きれいに剥ぐ。2枚になった断片を再び貼り合わせると、頁の表面、裏面が、1枚ずつ独立した断簡に仕上がる……。和紙でなければ不可能な「手術」だが、こうして「石山切」も、各地のコレクターの元へ渡った。
実はこの時の分割にも益田
そして展覧会にはもう1点、鈍翁ゆかりの「切断」作品が出展された(11月4日で終了)。現在は東京国立博物館所蔵の、《紫式部日記絵巻断簡》(重要文化財)がそれだ。
『源氏物語』の作者、紫式部が残した回想録『紫式部日記』を元にした絵巻で、「柿本人麻呂(佐竹本)」の所有者であった森川勘一郎(号 如春庵)が、大正9年(1920)に、全5段からなる絵巻1巻を入手。昭和7年(1932)、鈍翁が1〜4段を購入し、その中の第3段、
「佐竹本」も同様だが、数寄者たちは自らの美意識と注ぎ込める限りの資金をかけ、まさに「切った張った」の末に手に入れた道具を、ここぞという茶会の華として掲げたのである。
【臨時開館のお知らせ】 11月18日(月)9:30~18:00(入館は17:30まで)
プロフィール
ライター、エディター。
橋本麻里
新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術を楽しく、わかりやすく解説。著書に「美術でたどる日本の歴史」全3巻(汐文社)、「京都で日本美術をみる[京都国立博物館]」(集英社クリエイティブ)、「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」(新潮社)、共著に「SHUNGART」「北斎原寸美術館 100% Hokusai !」(共に小学館)、編著に「日本美術全集」第20巻(小学館)ほか多数。
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