2021.6.10
重要文化財「月次風俗図屏風」
稲庭彩和子・東京都美術館学芸員へのインタビュー。今回は、国内外から注目されるアート・コミュニケーション事業の道のりや今後の展開まで、たっぷりとうかがいました。美術館は社会課題に対して大きな役割を果たす可能性があるという、希望に満ちたお話です。
-東京都美術館(都美)での、来館者とアートを結ぶさまざまなプロジェクトは、どのように始まったのですか?
私が担当しているアート・コミュニケーション事業は、2012年に都美がリニューアルオープンしたときに、新しく始まりました。私はその発足の時期の2011年に着任しました。
都美は1926年に開館した日本で最初の公立美術館で、まもなく100周年を迎える長い歴史があります。その歴史の中で大きなリニューアルが2回ありました。最初が1975年で、この時から専門性を持った学芸員が常駐し、作品の収集や調査研究、展覧会の企画といったスタンダードな美術館活動が始まりました。教育活動もこの時からで、リニューアルから約10年間は、都美の学芸員と武蔵野美術大学の及部克人教授が企画した「造形講座」などが行われていました。日本の美術館としては非常に早い試みで、今でいう市民参加型の美術館ワークショップです。私は大学院生の時から、及部先生の市民講座に通い、勝手に師匠だと思って(笑)、ワークショップを手伝いに行っていたことがあり、それで、都美のリニューアルでの新規事業の話を聞いた時に、かつて及部先生が活動していた都美の歴史に続きを作れるかもしれないと、つながりを感じたことも、都美に転職した背景にあります。
着任してすぐに、まだどこの美術館にもない「アート・コミュニケーション事業」とは具体的に何か、と考える仕事がありました。東京都の有識者会議の議事録を読むと、活発な教育普及事業が想定されていて、一方で、都美の学芸員が考えた新しい都美のミッションには「創造と共生の場=アート・コミュニティ」という言葉が掲げられていました。それで、美術の知識を来館者に分かりやすく伝える従来の教育普及活動に加えて、多様な人々が美術と出会い世界とつながるための「創造と共生の場=アート・コミュニティ」が生まれるしくみを新たに構築する必要があると考えました。
-都美の活動には、一般の人々が数多く関わっていますね。
アート・コミュニケーション事業の立ち上げに当たって、都美の隣にある東京芸術大学と連携する可能性が生まれ、教授でアーティストの日比野克彦さんと打ち合わせをする機会がありました。都美から連携の案として「100人でつくる美術館」という構想を提案しました。すると、日比野さんが「面白いね」と言ってくださり、そこから打ち合わせが重ねられました。
「100人」というのは多様な人々が多様に関わるというイメージで、具体的には一般の市民から募る「アート・コミュニケータ」(愛称:とびラー)と美術館や大学の人々が、対話的に活動を行っています。「創造と共生の場=アート・コミュニティ」となる美術館を作るには、多様な人々が関わることのできる仕組みが必要だと考えて、そのプラットフォームとして「とびらプロジェクト」が構想されました。
「とびラー」は、従来の美術館のボランティア活動とは違い、美術館と大学と市民の関係性がフラットで、それぞれの主体性が大切にされる水平的なコミュニティです。美術を介して活動し、民主的で幸福な市民社会を考えていく、実験場のようなプロジェクトです。人と作品とのコミュニケーションをどうやって生み出していくか、そうした営みによって、人々がケアされる構造をどうやって作っていくか、作品やアーティストの価値だけでなく、鑑賞する側の人が作り出す価値について考えていくことで、作品を見ることの社会的な意味や、ひいては作品を展示・保存することの意義を顕在化していきたいと思っています。
現在、都美も含めて全国7か所でアート・コミュニケータが活動する事業が行われています。札幌文化芸術交流センター、岐阜県美術館、長野県立美術館など、文化施設のリニューアルに際して、これからの時代、どのように人々と美術館をつなげていくかを探るなかで、「とびらプロジェクト」のアート・コミュニケータの役割やあり方が共有されていっています。
-それぞれのプロジェクトについて具体的にお聞かせください。
今お話しした「とびらプロジェクト」と並行して、子供たちとその家族を対象とした「Museum Start あいうえの」というプロジェクトがあります。これは上野公園に集まる九つの文化施設が連携するプロジェクトで、上野公園がファミリーにとって、楽しく学びのある場所となることを目指して、九つの施設を一覧できるポータルサイトを作り、ミュージアム・スタート・パックというツールを作り、年間を通じて参加型のプログラムを行っています。
二つのプロジェクトは連動していて、大人のアート・コミュニケータ「とびラー」が、「あいうえの」に参加する子どもやファミリーに対して積極的に関わる構造になっており、作品を一緒に見るなど、文化財を介して社会に参加する回路を作っています。ファミリープログラムでは、子どもは親と離れて「とびラー」と活動するため、親でも先生でもない、第三者の大人と一緒に作品を見る新鮮な体験になります。
―美術館の使い方が社会にもっと定着すれば、うつや引きこもり、いじめ、高齢者の孤独など、さまざまな問題解決への一助になりそうですね。
そうですね。イギリスでは2018年に孤独担当大臣のポストができたように、望まない孤立は個人の問題というだけでなく、社会的な損失でもあると認識されるようになりました。人々が幸福に、健康に生きるには、社会的なコミュニケーションが欠かせません。そうした人々のつながりをつくることに寄与するのも美術館の役割ではないかという議論が、イギリスではここ20年ほどで活発になり、人々の心身の健康づくりのための美術館の関わりが積極的になされています。例えば、お医者さんから薬の処方箋の代わりに「美術館のプログラムに参加」といった、「社会的処方箋」が出されるのです。
日本でも、超高齢社会やコロナ禍で、人々の孤立がますます深刻化しており、今年度の政府の骨太の方針の中に「社会的処方」が言及されると聞きました。そうした状況で美術館に何ができるのかということは、考えていく必要があると思います。
イギリスでは過去10年の間に、美術を鑑賞することがどのくらい健康にプラスかという研究が進み、美術館と、健康、社会的処方、ウェルビーイング、ケアなどをテーマにした本がたくさんあります。
日本は医療や介護のシステムが発達している一方で、精神的な心の充実をケアするしくみは多くはなく、美術を楽しむことは、実は隠れたニーズがあると思うのです。年を重ねるほど、自分の中にこれまでの人生で積み重ねてきたイメージが豊かにあるので、作品に自分の経験を重ね合わせたり、誰かと共有したりして楽しむことができて、精神的な充実感が増す可能性があります。
東京都美術館では、この4月からは、シニアを対象とした「クリエイティブ・エイジング」という活動が始まりました。これまで美術館にあまり来ていない方々を迎えたり、オンラインでつないだりすることで、芸術文化を介して社会に参加する回路を増やしていく活動です。
2021年8月29日までは、特別展「イサム・ノグチ 発見の道」が開催されていますが、この展覧会に関連して、芸術と科学をつなぐ参加型のワークショップなどを準備しています。今後も、さまざまな方が美術館を楽しめる場をつくっていきたいと思います。
◇ ◇ ◇
「美術と人をつなぐ」という使命のもと、さまざまな場所に飛び込んで、道を切り開いてきた経緯を「コーリング(Calling: 天職)のように感じて」とさらりとおっしゃる稲庭さん。みなさんもぜひ、都美のウェブサイトで「Museum Start あいうえの」や「とびらプロジェクト」などをチェックしてみてください。そして、全国各地の美術館を、ご自分やご家族のケアとしても、最大限活用していただけたらと思います。
【稲庭 彩和子 (いなにわ・さわこ)】横浜市生まれ。青山学院大学を卒業後、同大大学院の修士課程に進み日本美術史を学んだ。その後、神奈川県より助成を得て大英博物館で職業研修、同時期にロンドン大学大学院で修士課程を修了。2003年から、神奈川県立近代美術館に勤務。11年から東京都美術館に勤務し、アート・コミュニケーション事業を担当し、市民と協働するプロジェクトなどを立ち上げる。展覧会「キュッパのびじゅつかん」などを企画。現在、同館学芸員、アート・コミュニケーション係長、文化庁ミュージアム・エデュケーション研修企画運営会議委員。共著書に「美術館と大学と市民がつくるソーシャルデザインプロジェクト」(2018年)、監修本に「ペネロペと名画をみよう」(同)、「100人で語る美術館の未来」(11年)。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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