鮮やかな配色と斬新なデザインが目を引く武将たちの服飾類は、異国文化が流入した戦国時代から近世初期の雰囲気を伝える。上杉謙信らゆかりの服飾類の修理には時間を要したが、見事に美しくよみがえった。その技術を詳報するとともに、歴史の息吹を伝える。
戦国武将・上杉謙信をまつる上杉神社(山形県米沢市)は明治初期、謙信の遺骸を安置していた米沢城本丸内の御堂が神社に改められて創設された。社殿は後に城跡中央部の現在地に新たに建てられた。上杉家歴代の遺品や宝物は文化財として上杉家から上杉神社へ寄進され、宝物殿「稽照殿」に収められている。
中でも、謙信と初代米沢藩主景勝ゆかりの服飾類は、重要文化財が100点近くに上る。館長で学芸員の角屋由美子さん(65)は「これだけ多くの服飾類が一か所に伝わってきたのは例を見ないのでは。これには米沢独特の気候が影響していた」とみる。
現代のような空調を備えた収蔵庫がない時代、服飾類は土蔵などで保管されることが多かった。服飾類は虫食いとカビが最大の敵だが、米沢は日本有数の豪雪地帯のため、冬は心配ない。また、地球温暖化が懸念される以前の米沢の夏は、からっとした湿気の少ない暑さだったという。加えて上杉家の家臣が代々にわたって謙信や景勝を慕い、夏に「虫干し」を行うなど虫食いやカビの害から積極的に守った。
服飾類は、戦国時代から近世初期にかけて活躍した武将を取り巻く当時の雰囲気を伝える。ただし、謙信・景勝どちらのものかという判別は難しく、2代にわたって着用された可能性もあるという。使用痕が残っている服もあり、大切な行事に限って使われていたとは考えにくい。
「お気に入りの“勝負服”があった可能性や、デザイナーを抱えていた可能性などが考えられるが、いずれも断定できない。様々な想像をかき立てる服飾類の展示を、じっくりと見てほしい」と角屋さん。
稽照殿は、米沢市出身の建築家伊東忠太が大正期に設計したコンクリート造りの重厚な建物で、登録有形文化財(建造物)になっている。
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上杉謙信は1530年、越後国守護代・長尾為景の次男として生まれたとされる。関東管領・上杉憲政を保護し、上杉の名跡と関東管領の職を譲り受けた。
78年の謙信の死後、家督を相続したのが、おいの景勝だ。名将・直江兼続を側近とし、越後から会津120万石へと加増され、豊臣政権の五大老にも列せられた。しかし、関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対したため、米沢30万石に減封され、初代藩主となった。
今日の米沢市民に最も親しまれているのが、9代藩主上杉鷹山だ。減封により藩財政が窮乏を極める中、家臣らに厳しい質素倹約の生活を求め、率先して改革を実践した。「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは人の なさぬなりけり」という教えや、米大統領ケネディが尊敬したことでも知られる名君だ。
現在も続く伝統産業、米沢織は、鷹山が武士の婦女子に内職として機織りを習得させ、桑の栽培と養蚕を奨励したことで発展した絹織物業だ。また、コイの養殖や、食用を兼ねた垣根のウコギ植栽を奨励するなど、藩財政を立て直すための改革を次々に実行した。
(2024年7月7日付 読売新聞朝刊より)
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