京都ゆかりの国宝、皇室の至宝の数々を出品する特別展「
「明月記」を伝えた
京都は王朝文化を伝える「器」だ。応仁の乱で焼け野原となり、江戸時代にも繰り返し大火に襲われたが、土蔵の中の古典籍は生き延びた。
明治維新後、天皇とその近臣は東京に去ったが和歌の家、
幕末維新期の公家の数は140家余りといわれる。多くは明治天皇に従って東京に去り、京都の元の場所に今も屋敷を維持しているのは冷泉家だけ。京都市上京区の重要文化財、冷泉家住宅に25代当主の
先代、
御文庫には先祖の藤原俊成、定家以来の典籍が収められている。
「蔵自体が神殿なんです。毎年元旦には蔵の2階にある俊成卿と定家卿、歴代の御影(肖像画)にお参りする」と貴実子さん。「バチが当たるという気持ちがあるから文化財は守られる。神社仏閣は各地に残っているけれど、信仰の対象ではないお城はいっぱい壊されたでしょう」
京都は地震や火事、水害、戦火に繰り返し見舞われた。天明の大火(1788年)では冷泉家の屋敷も焼けたが、御文庫と中の典籍は無事だった。
最大の危機は終戦直後。農地改革で田畑を失い、伯爵だった冷泉家は華族制度の廃止で華族下賜金を受けられなくなった。さらに「母が怒っていたのが財産税。土足で上がり込んだ徴税官に、ここは広すぎる。つぶしてアパートを建てたら何家族も住めるやないかと言われて」
それを聞いた京都府の申し入れで学術調査が行われ、国宝級の文化財が何点もあると報道された。文化庁が動き、企業などからの寄付を基に財団法人「冷泉家時雨亭文庫」を設立し、相続問題は解決した。
このころ、近世絵画史の学者、為人さんは友人を介して貴実子さんと会った。
「公家のお姫さんと食事したら話のタネになる」という軽い気持ちだったが結局、婿入りして「冷泉家の蔵番」を担うことになった。
当主として歌会などで歌を作らないといけない。初めのうちは妻と義母のダブルチェックを受ける一方で、資金集めにも奔走した。住宅の解体修理に10億円、「明月記」の修理に2億2000万円かかった。
8棟ある土蔵のうち3棟は老朽化のためプレハブ倉庫に替えてしのいでいたが、3年前の台風で破損した。これを機に、伝統的な土蔵に戻そうと現在再建中で、費用はクラウドファンディングも使って集めている。
「身も蓋もないが、文化財を守るのはお金。それを畏れ敬う心がないとダメだけれど」と話し合う夫妻のがんばりは今後も続く。
藤原道長の六男、長家に始まる
冷泉家の家祖、
嫡流の二条家は権力争いに巻き込まれ、和歌が巧みと評判だった京極家は政治に関わりすぎて、いずれも家が断絶した。残った冷泉家が藤原俊成の歌論書「
戦国時代には地方へ避難し、駿河(現在の静岡県)の今川氏などを頼った。豊臣政権期には正親町天皇の勘気に触れて大坂に退去したが、徳川家康の取りなしで京都に戻り、現在の場所に屋敷を構えた。
秀吉が形成した公家町の屋敷のほとんどは明治時代に取り壊され、跡地は京都御苑となった。その外側に位置する冷泉家は旧地に残ることができた。
(2021年7月4日読売新聞より掲載)
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