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2023.9.6

【門跡寺院 格式と継承】青蓮院(京都)、中宮寺(奈良)

門跡寺院は、皇室、公家と深い関わりを持ち、支援を受けながら、文化継承の役割を担ってきた。戦乱、明治維新による存続の危機を乗り越えて、さらに歴史と独自の文化を将来へ伝えるべく、新たな歩みを始めている。仁和寺にんなじはゆかりの深い焼き物など工芸品の振興を支援し、大覚寺だいかくじは大学を運営し次世代のアーティストを育てる。皇統につながる青蓮院しょうれんいん・東伏見慈晃門主、聖徳太子の心を伝える中宮寺ちゅうぐうじ・日野西光尊門跡には、門跡寺院が守り伝えてきた伝統と歴史、これからを聞いた。

青蓮院 / 皇統につながる寺院の伝統

青蓮院(京都市東山区)は、天台宗(総本山・比叡山延暦寺、大津市)の京都五か室門跡の一つ。宗祖・伝教大師最澄が、比叡山に建立した僧の住居「青蓮坊」が起源とされ、浄土真宗の開祖・親鸞が得度したことでも知られる。平安時代末期に寺地が京都に移り、鳥羽法皇の皇子が入寺して以来、皇族らの子弟が住職を務めた。

東伏見慈晃じこう門主(81)の父、慈洽じごう・前門主は久邇宮邦彦王くにのみやくによしおうの次男。慈晃門主にとって、香淳皇后(昭和天皇の皇后)は伯母、上皇さまはいとこにあたる。「子どもの頃から歴史学者だった父に文化財の大切さを教えられてきた。当然のこととして保存や修復に取り組んできた」と語る。

青蓮院の東伏見慈晃門主

銀行マンから50歳で得度、入寺し、仏教を7年間学んだ。執事長を経て2004年に門主に就任。サラリーマン時代は同僚や取引先など周囲で仏教や宗教が話題になることが全くなく、「信仰心を感じる人はいなかった。だからこそ、人々に仏教の教えを説くお寺本来の仕事をすべきだと。それが私の出発点でした」と振り返る。

05年には「仏様のお力を持ち帰ってもらおう」と国家安泰、天変地異の鎮静を祈願する秘仏の本尊「熾盛光しじょうこう如来」の曼荼羅まんだらを創建以来初めて開帳した。14年には「青不動」(国宝)をまつる青龍殿を将軍塚にある飛び地境内(京都市山科区)に建立。護摩堂や京都市街を一望する大舞台も整備した。今は、25年春の完成を目指し、国の補助を得て宸殿などの大修理が進む。

毎月、満月の日に護摩祈祷きとうを青龍殿で営む。「お不動様は諸願成就の仏様。月の引力で干潮満潮が起こるように、月のパワーが最も強い満月の日に皆様の願いがかなうお手伝いができれば」という。

皇統につながる身として門跡寺院の伝統を守っていく。「信仰の対象として文化財に親しみ、お寺や仏教を心のよりどころにしてほしい」

◇     ◇     ◇

中宮寺 / 法灯守る皇女、公家の子女 

飛鳥時代に聖徳太子が母・穴穂部間人あなほべのはしひと皇后の宮殿を改めて創建したとされる尼門跡寺院・中宮寺(奈良県斑鳩町)。日野西光尊門跡(92)は「歴代のご門跡が一生懸命守ってこられた寺を活気づけ、継承することが使命です」と語る。

中宮寺の日野西光尊門跡

寺は平安時代に衰退したが、鎌倉時代に信如比丘尼しんにょびくにが所在不明となっていた日本最古の刺繍ししゅう「天寿国繍帳しゅうちょう」(国宝)を、近くの法隆寺で発見するなどして再興。皇族の皇女や公家の子女を門跡に迎え、法灯を守り伝えてきた。

日野西門跡も、祖父が明治天皇の侍従を務めた公家の出身。昭和天皇の四女・池田厚子さんとは学習院時代の同級生で、皇室と関わりが深い。1961年に入寺の際、故高松宮妃喜久子さまから贈られた時計は今も大切にしている。

中宮寺の本尊・国宝「如意輪観音菩薩像」

64年に門跡となり、68年には、災害による損傷を心配された喜久子さまの発願で、本尊・如意輪観音菩薩ぼさつ像(菩薩半跏はんか像、国宝)をまつる鉄筋コンクリート造りの本堂を建立。傷みが進んで修復した際には上皇ご夫妻が心を寄せられ、今年5月に寺を訪ねられた。

伽藍がらんの維持だけでなく「ほほえみの本尊様のおそばで修行できる場所を」と研修道場を建て、女児や女性の修行体験を実施。茶道・中宮寺御流の家元も務め「茶の心は仏心に通ずる」と茶会などでも聖徳太子の「和」の心を伝えてきた。日野西門跡は「太子さまのお心が皆様に届くよう力を尽くしたい」と力を込める。

(2023年9月3日付 読売新聞朝刊より)

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