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2022.11.9

【利休とゆかりの茶人(下)】 忠興の眼力 文武通ず

北から望むと天に向かう昇龍、南からは空を舞う飛龍。立つ位置で姿を変える日本三景・天橋立(京都府宮津市)は古くから歌の題材になり、人々の旅情をかき立ててきた。約440年前、粋に飾った船に乗り、見物にしゃれ込んだ一団がいた。

もてなしを担ったのは細川忠興、後の三斎。近江(滋賀県)出身の武将・蒲生氏郷、独自の茶を成した古田織部らと共に千利休の高弟「利休七哲」に数えられる。

細川三斎像=八代市立博物館(熊本県)提供

堺の商人・津田宗及の茶会記録「天王寺屋会記」によると、その場では茶人・山上宗二、忠興の父で歌人としても名高い藤孝(幽斎)、義父の明智光秀らが風雅な時間を過ごした。忠興は立派な膳を振る舞い、光秀に太刀を贈ったと記されている。

細川父子は1580年から20年ほど丹後・宮津を治めた。城跡の当時の地層からは天目ぢゃわんが見つかり、青磁の破片なども数多く出土した。宮津市教委の東高志・文化財保護担当課長は「文献にとどまらず、城内で茶の湯が頻繁に行われていたことを示す資料」と力を込める。

宮津城跡から出土した天目茶碗=宮津市教委提供

忠興は家督を継いだ82年に利休と出会い、「われ死してのちもこの道に志あらん人々は織部と忠興に従って稽古すべし」と言われるほどの存在になった。他者からは「天下一気が短い」とも評された忠興だが、なぜ茶の湯で大成できたのか。

細川家の資料を調査する熊本大の稲葉継陽教授は「迷えば死、という場面を幾多もくぐり抜けて磨き上げられた眼力が、茶の湯でも生きた」と見る。

飾った船で一行が見物をしたという天橋立(京都府宮津市で)

忠興は国内およそ50度の戦で負け知らず。織田信長が討たれた本能寺の変(1582年)では義父の光秀と距離を取り、関ヶ原の戦い(1600年)ではいち早く東軍につくなど、命運を左右する場面で判断を誤ることはなかった。

「無駄をそぎ落としたところに美を見いだした利休の審美眼と相通じ、互いに信頼と理解を深めたのだろう」と稲葉教授は話す。

戦国最後の戦となった大坂の陣(14~15年)後、忠興は還暦を前に剃髪ていはつして三斎を名乗り、数々の茶席に臨んだ。江戸城で3代将軍徳川家光の招きを受けたのは80歳前。共に戦場を駆け抜けた武将の多くが世を去った後だった。利休を知らない世代も、三斎を通して在りし日の茶聖と戦国の世を垣間見ていたのかもしれない。

(2022年10月25日付 読売新聞京都版より)

 
 

へうげもの 創作の妙

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の天下人3人に仕えた武将であり、千利休の高弟で数奇すき(茶の湯)を極めた茶人――。二足のわらじをはく古田織部を主人公にした漫画が、「へうげもの」(山田芳裕作、講談社)だ。週刊誌「モーニング」で2005~17年に連載され、テレビアニメ化された。全25巻のコミックは電子版を含め累計330万部に達するベストセラーとなった。

へうげものとは「ひょうげもの」と読み、「ひょうきん者」「おどけた者」といった意味。戦国時代、大名を夢見て奔走する一方、茶道具に目がなく、出世欲と物欲の間でもん絶する。「我々日本人が持つ欲望の起源はどこにあるのか。そんな作者のテーマが行き着いた先が、織部だった」。モーニング編集部で山田氏を担当する編集者・井上威朗さん(51)は明かす。「織部を、欲望を肯定する生々しいキャラクターとして描いた」と人気の秘密を解く。

織部を象徴する言葉「へうげもの」は、1599年、京都・伏見の織部邸での茶会に招かれた博多の豪商・神屋宗湛かみやそうたんの日記に登場する。「セト茶碗ちゃわん ヒツミそうろうなり。ヘウケモノ也」。薄茶の席で出されたひずんだ茶碗をみた驚きだった。

「織部の創作の原動力は、現代風に言えば、サプライズかな」。元東京国立博物館工芸課長の矢部良明さん(78)(茶道史)は笑う。利休は自らの美学を投影して茶器を作らせたが、織部は陶工の自由に作らせ、自分が良しとするものを選んだ。「織部の茶会は臨機応変、当意即妙。客を楽しませるのが目標で典型的なエンターテイナー」と指摘する。

京都国立博物館(京都市東山区)で開催中の特別展「みやこに生きる文化 茶の湯」に出品される焼き物からも一端がうかがえる。口がゆがんだ「黒織部百合文沓ゆりもんくつ茶碗」や緑釉りょくゆうを施した奇抜な形の「織部扇形蓋物おうぎがたふたもの」などだ。

利休を継ぎ「天下一の宗匠」となった織部は、大坂夏の陣で豊臣方への内通を疑われて自刃。大徳寺塔頭たっちゅう三玄院(京都市北区)に墓がある。

京都の茶道藪内やぶのうち家(京都市下京区)は織部と関係が深い。流祖・剣仲けんちゅうの妻は織部の妹で、織部好みの茶室「燕庵えんなん」も伝わる。

十四代家元の藪内紹智じょうちさん(54)は言う。「藪内家には織部さんが愛したお道具が幾つかあり、その茶の湯のかたちが今も生きています」

(2022年10月26日付 読売新聞京都版より)

 
 

静謐の道 官兵衛熱く

 

播磨(兵庫県南西部)出身の戦国武将、黒田如水(孝高よしたか)。官兵衛の名でも知られる豊臣秀吉の軍師で、千利休の屋敷跡に近い京都市上京区如水町に屋敷跡が残る。如水町の南側は、旧姓「小寺」にちなんだ小寺町だ。

軍事面で名高い如水だが、茶の湯については定書さだめがきで「我流ではなく利休流」と教えを請うたことを強調し、親交の深さがうかがえる。

如水が没した伏見。嫡男長政の屋敷もこの辺りにあったと伝わる(京都市伏見区で)

「孝高これを嫌ひて、勇士の好むべきことにあらず」「主客無刀になり、狭き席にこぞり座し、甚だ不用心なり」。幾多の戦場をくぐり抜けてきたからだろうか、逸話集「名将言行録」では「丸腰」で臨む茶の湯に当初、懐疑的な目を向けていたと記される。それから、秀吉に「茶室なら疑念を招かず、2人で密談ができる」と諭されたのを機に、その世界に引き込まれたとされる。

「黒田官兵衛」の著書がある諏訪勝則さん(57)は「茶の湯は連歌と並んで教養人の社交の場。たしなまないとリーダーとしての格も落ちた」と指摘する。

一説には秀吉から「次の天下人」とまで言われた如水だが、主君から出たその言葉を警戒してか、九州に所領を得てから早々に嫡男長政に家督を譲り、茶の湯や連歌を深めた。利休の死から2年後の1593年には出家して如水を名乗り、倹約を是としたという。

諏訪さんは、徳川の世に移った後にも注目し、「幕府に細心の注意を払っていた。政治よりも文化を重んじる家風だと印象づける狙いもあったはず」と語る。

1604年、如水は屋敷があった伏見で死去。キリスト者として知られたが、茶の湯と関わりの深い京の寺にも墓所がある。

如水の名の由来は諸説あるが、司馬遼太郎は小説「播磨灘物語」で、「身は褒貶毀誉ほうへんきよの間に在りといえども心は水のごとく清し」「水は方円の器にしたがう」の古語を挙げた。戦場の喧騒けんそうの対極にある静謐せいひつな茶の世界に浸ることで、その境地を深めていったのだろうか。(おわり)

(2022年10月27日付 読売新聞京都版より)

 

特別展「京に生きる文化 茶の湯」
(京都国立博物館)
公式サイトはこちらから

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