国立工芸館(金沢市)の唐澤昌宏館長へのインタビュー。今回は、高校から美術の道に進み、彫刻に打ち込んだ大学時代、そして陶芸の研究へと誘われた経緯、さらには2020年に国立工芸館が移転した先の金沢の魅力まで、お話しくださいました。
―小さい頃から美術が好きでしたか?
名古屋市出身なのですが、展覧会を見に行った記憶はあまりなくて、自分で絵を描いたり、工作したりするほうが好きでした。小学校の図画工作では、時間を忘れて没頭していましたね。父も物作りが好きで、家の棚などを作っていました。
中学で進路を選ぶときに、最初は高校の普通科の願書を出していたのですが、美術の先生から「こういうところもあるぞ」と言われて。それが愛知県立旭丘高校の美術科でした。美術科の高校に行く人は少ないので、親には「えっ」と驚かれました(笑)。
1学年1クラスだけで、40人しかおらず、3年間同じクラスでした。確か、石膏デッサンが週に4時間、そして、油絵、日本画、彫塑(彫刻)、デザインなどの実技が週に6時間でした。
1、2年生で油絵、日本画、彫塑などいろいろやって、3年生からは専門に分かれるのですが、油絵は匂いが苦手で、日本画は下向いて描くのがダメで(笑)。立体は面白いなと思い、体を動かすのも好きだったので、彫刻を選びました。
博物館や美術館にもよく行きました。夜行電車で東京に行って、美術館が開く時間まで山手線に揺られて1、2時間寝て、それから美術館やギャラリーを回って、また夜行で帰りました。絵や工芸、写真など、ジャンルを問わず、好きなものを見ていました。
―高校に入学したときから、美大への進学を決めていたのですか?
実は、高校時代から始めた写真が面白くて、写真科のある大学に行こうと思っていたのですが、入試の教科に高校の授業になかった数Ⅲも含まれていることがわかって断念しました。高校は美術の実技の時間が多い分、数学や社会で学ぶ範囲が限られていたのです。ですから、大学受験は彫刻しか選択肢がなかったですね。
―愛知県立芸術大学に入学後は、どんな彫刻を作りましたか?
塑像、木彫、石彫、テラコッタ(素焼き)、それから、溶接や鋳造、乾漆もやりました。作品のテーマは主に人体で、だんだんと抽象的な形態へと変わりました。普通は、大学の3年生以降に、石、木、金属など、素材をひとつに決めて、作品を作り込んでいくのですが、私は、あっちをやったり、こっちをやったりと、中途半端だったのですよ。でも、研究者になった今振り返ると、あの頃にいろいろな素材を経験しておいて本当によかったなと思います。
―その頃に影響を受けた彫刻家はいますか?
アルベルト・ジャコメッティ(スイスの彫刻家)とコンスタンチン・ブランクーシ(ルーマニアの彫刻家)の作品が特に好きでした。当時、西武美術館(後のセゾン美術館。1999年に閉館)で行われた「ジャコメッティ展」のカタログは、今も持っています。評論家の矢内原伊作の「ジャコメッティとともに」(69年)という本を愛読して、矢内原の目を通して考えるのも面白いなと感じていましたね。
大学院生の時に、仏像修復の手伝いを始めたことで、仏像もすごく好きになりました。思い返せば、高校時代から、写真を撮りに奈良のお寺に行っていましたね。仏像は非常に具象的でありながら、人から見えるところは作り込む一方、裏側の見えないところはあっさり作るといったメリハリも面白いと思いました。自分も彫刻をしていたので、自然とそんな見方をしたのかもしれません。
―大学院卒業後も、大学に残って非常勤で教えていらしたのですね。
彫刻をするには広いスペースが必要なので、家のガレージを作業場にしていたのですが、道具を借りられるメリットから、大学には所属していたかったのです。公募展に出したり、グループを組んで作品を発表したりもしていました。
そんな折、愛知県陶磁資料館(現・愛知県陶磁美術館、愛知県瀬戸市)が増築して現代陶芸の展示スペースを作るので、その担当者を募集しているという話が大学の先生から来ました。こういう話が来たということは、もう大学には残れないのだろうと思って、2、3年働いて、貯金して、アトリエでも借りようかなと思いました。こうして資料館の学芸員になり、陶磁器の研究を始めたのです。勤め始めてしばらくは、彫刻の制作や発表も続けていました。
その頃、テラコッタの作品を作っていたので、土を焼くという点は陶芸と共通していました。話がさかのぼりますが、大学3年生の頃、木を彫っていたとき、指の腱を切るけがをしたことがあります。治るまで制作ができなくなったので、大学の図書室に通って、彫刻の本をアルファベットのAから順に見ていきました。1回に3冊ずつ借りられるので、3冊借りて、返して、また3冊借りてと、司書のかたにも顔を覚えられて(笑)。気になる作家名や作品名をメモしたり、コピーを取ったりしました。その時に、「彫刻家が作るテラコッタと、陶芸家が作るオブジェって、何が違うんだろう」と心に引っかかって。また、学生時代から現代美術が大好きで、土で作った作品を見る機会も多くありました。
―そのときに図書館の本で見て、特に引かれた焼き物はありますか?
京都の陶芸家、鈴木治さんの1971年の作品「馬」(京都国立近代美術館)です。馬をかたどったシンプルな造形で、私自身も、余分なものをそぎ落としていくような彫刻の制作をしていたので、引かれたのだと思います。愛知県陶磁資料館に入って、初めて展覧会を企画したとき、あの「馬」を実際に見たい、展示したい、と考えました。それで実現したのが、「現代の陶芸1950-1990」展(愛知県美術館)です。
―その後、2003年に東京国立近代美術館(東近美、東京都千代田区)に移られたのですね。
東近美で最初に企画したのは、近代の陶芸家・富本憲吉の展覧会でした。富本は一時、瀬戸市で制作をしていたため、愛知県陶磁資料館にいた時に、市と協力して展覧会をしたことがあり、以来、研究を続けていました。代表作が東近美に所蔵されていたので、改めて展覧会を企画したのです。
―東近美の工芸館は2020年に、東京から金沢に移転して「国立工芸館」と改称し、新しく開館しました。建物も美しいですね。
木造なので、工芸品と同じように、年月を重ねるとさらに美しくなっていくと思います。当館の近くには、金沢21世紀美術館、鈴木大拙館など、美術館・博物館が多く、手軽に見て回れます。金沢の街中は、県や市が力を入れて、古い建物を活用したり、昔の建物を復元したりしていますし、工芸のお店が点在していたり、新しいギャラリーができたりと、少し歩くだけでいろいろな発見があります。緑豊かな兼六園もありますし、食べものもおいしいです。それに、歴史的な街ながら、特に駅前などはすごく変化もしています。金沢のさまざまな魅力とともに、工芸館を楽しんでいただけたらうれしいですね。
―2021年秋の展覧会タイトルは「《十二の鷹》と明治の工芸―万博出品時代から今日まで 変わりゆく姿」です。
東京の竹橋から金沢市に移転してきて約1年がたちました。それを記念して、重要文化財の鈴木長吉「《十二の鷹》」を一堂に展示します。超絶技巧という言葉がふさわしい金工の作品です。昨年の開館記念展では3羽だけ展示したのですが、12羽そろったところが見たいという声が多くありましてね。北陸地域では初めてのお披露目となります。その他にも、このところ積極的に収集してきた明治時代の陶磁や漆工の作品も展示紹介します。当時の技術力の高さや表現力の豊かさを、ぜひ、ご覧いただけたらと思っています。
◇ ◇ ◇
工芸家がつくる作品を身近に楽しんでもらえたらと語る唐澤さん。みなさんもぜひ、美術館やお店、オンラインで、好きな作品を見つけてみてください。心豊かな時間が過ごせると思います。
【唐澤昌宏(からさわ・まさひろ)】1964年、名古屋市生まれ。愛知県立芸術大学大学院美術研究科修了。その後、愛知県陶磁資料館(現・愛知県陶磁美術館)学芸員、東京国立近代美術館主任研究員、同館工芸課長を経て、2020年より館長。18年、第39回小山冨士夫記念賞(褒賞)を受賞。専門は近・現代工芸史。日本陶磁協会賞選考委員。著書に「窯別ガイド日本のやきもの 瀬戸」(淡交社)、共著に「日本やきもの史」(美術出版社)、「やきものを知る12のステップ」(淡交社)など。主な企画・監修に「青磁を極める-岡部嶺男展」「現代工芸への視点―茶事をめぐって」「日本伝統工芸展60回記念-工芸からKŌGEIへ」「青磁のいま―受け継がれた技と美 南宋から現代まで」「The 備前―土と炎から生まれる造形美―」「近代工芸と茶の湯のうつわ―四季のしつらい―」など。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
0%