2022.2.14
「朱漆巴紋牡丹沈金御供飯」
「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!
今回お話をうかがったのは、「おきみゅー」の名で親しまれる沖縄県立博物館・美術館(那覇市)の伊禮拓郎・学芸員です。紹介してくださるのは、「朱漆巴紋牡丹沈金御供飯」(沖縄県立博物館・美術館)。曲線美と金色文様のヒミツを解き明かしながら、華やかな琉球漆器の世界に案内していただきました。
―「朱漆巴紋牡丹沈金御供飯」には特別な思い入れがあるそうですね。
御供飯は、私が大学1年生のときに最初に学んだ琉球漆器です。しかも、のちに所蔵先の沖縄県立博物館・美術館に勤めることになり、この漆器の修理事業を担当したので、深い縁を感じています。
くびれのある6本脚の盆に、ドーム状の蓋がかぶさります。こうした形状の漆器は、琉球にしか見られず、類似の作品は世界に5個しか見つかっていません。いずれも琉球王国時代に作られたと考えられています。現存する使用記録は王家・王族家に関連する事例のみなので、琉球漆器の頂点のひとつといえます。
国王の葬式で使った道具を記した絵図「御葬具図帳」(那覇市歴史博物館)にも、これと同じ形の漆器が描かれています。これらの漆器は、お供えものを入れて、葬式や法事、あるいは正月の儀式などで使ったとされています。現存する5個のうち最も古いと考えられるのは、「朱漆花鳥密陀絵七宝繋沈金御供飯」(徳川美術館)で、徳川家康が息子・徳川義直(尾張徳川家初代)に形見分けした記録が残っています。このことから、琉球王国では、17世紀初めまでにはこうした漆器が作られていたと考えられます。
首里王府(琉球王国の統治組織)には、物作りをする役所が複数あり、そのうちの「貝摺奉行所」で漆器が作られていました。この名称は、貝を使って漆器に装飾する技法「螺鈿」にちなんでつけられたようです。時代が下ると、王府の物作りは民間に発注されるようになったと考えられています
―「朱漆巴紋牡丹沈金御供飯」の見どころを聞かせてください。
まずは蓋の美しいドーム型です。これはテープ状にした木材を巻き重ねる「巻胎技法」で作られています。木の板は、曲げると元のまっすぐな形に戻ろうとするので、自然に外側へと広がって固定されます。その性質を生かしつつ、木材同士を膠(動物の骨や皮などから作る糊)で接着してさらに強固にし、固定しながら巻き重ねています。
こうしたドーム型は、大きな丸太を轆轤で挽けば一気に作れるわけですが、沖縄は良質な木が少ないため、巻胎技法により、少ない木材で作ったとされます。少ない材料で巧みに物を作るのも、琉球漆器の特徴と言えるかもしれません。
巻胎技法は、遅くとも17世紀初頭には中国から伝来していましたが、現在の中国漆器にはあまりみられず、日本本土の漆器にはほとんどありません。巻胎技法で作られた漆器としては、以前は、奈良の正倉院に伝わる、鳥のような形の漆器「漆胡瓶」(直径18.9センチ)が最大といわれていましたが、この作品は直径48センチで、現在はこちらが最大とされます。
蓋の中心の平らな部分は、木の板を数枚組み合わせてはめ込んであります。一方、脚部分は複数の材を削り、形を整えています。全体の形が完成したら、表面全体に朱漆を塗ります。
この漆器のもうひとつの魅力は、模様の美しさです。左巻きの巴を三つ表した模様を「左三つ巴紋」といい、琉球の王家の象徴です。牡丹は花の王様であり、最高位を意味します。そのため、朱色の地に巴紋と牡丹の文様をほどこした漆器は、正月や祭祀など王国のオフィシャルな儀式で使われました。
ご覧の「朱漆巴紋牡丹沈金御供飯」は、蓋の牡丹文様の一部が欠けていて、その下から別の模様が見えています。表面の文様は何回か修復された可能性があるため、ボディーが作られた年代と文様があしらわれた年代に違いがあると考えられます。
―どのような技法で文様を表したのでしょうか。
表面全体に朱漆を塗って乾かしたあと、彫刻刀で文様を彫っていきます。それが終わったら、全体に金箔を貼り付けます。そして表面を拭い取ると、溝の部分にだけ金箔が残り、そのほかの金箔はこすり落とされます。こうして金で文様を表すことができるのです。この技法は「沈金」といいます。
沈金は、琉球漆器を代表する加飾技法のひとつです。中国の装飾技法である「鎗金」がもとにあるとされます。なお、琉球漆器の代表的な技法にはほかに、貝殻の内側の輝く部分を薄く磨いて貼り付ける「螺鈿」、そして「堆錦」があります。堆錦とは、漆に顔料を練り込んで軽く焼いて餅状にし、うつわの表面に貼り付ける技法です。漆は湿度が高くないと乾かないため、日本本土で堆錦をしようとしても、厚い漆の層が乾き切りません。湿度が非常に高い沖縄ならではの技法です。
ちなみに、中国漆器の主な装飾技法には、「鎗金」と「螺鈿」のほか、漆を何層も塗り重ねてから文様を彫る「堆朱」があります。そして、日本本土の漆器を代表する装飾技法といえば、金粉や銀粉を蒔きつけて文様を表す「蒔絵」です。
―琉球漆器はいつ頃から作られるようになったのですか。
時期はわかりませんが、おそらく中国大陸との交易で漆器がもたらされ、やがて琉球でも作られるようになったのでしょう。しかし、琉球の気候や土壌は漆の木の生育にはあまり合わず、採れる量が少なかったため、日本や中国の漆を混ぜて製作したようです。製作年代がわかる現存最古の琉球漆器は1500年頃の作とされますが、最古ながら完成度が高いため、漆器作りはもっと前から始まっていたはずです。また、琉球漆器にほどこされる文様は、中国漆器の影響を受けているため、産地を見分けることが難しい場合が多々あります。実は、琉球漆器の研究が本格化する以前は、「日本漆器でも中国漆器でもなさそうだから、琉球漆器だろう」とおおざっぱに分類されていた時期もあり、そうした傾向は今も残っています。
―琉球漆器の研究はいつ頃から始まったのですか。
1970年代に、徳川美術館(名古屋市東区)の前館長、徳川義宣先生(尾張徳川家第21代当主)と東京国立博物館の荒川浩和先生が初めて体系的な調査研究を行いました。1977年には共著で、琉球漆器研究のバイブルとされる研究書「琉球漆工藝」を出しています。1980年代になると、琉球王府が漆器を作っていたことを記した19世紀の古文書が見つかり、90年代にその研究が徐々に進みました。1990年には、日本初の漆専門の美術館、浦添市美術館(沖縄県)が開館しました。
2000年代になると、技術の発達により、漆器の構造を科学的に分析できるようになりました。また、首里城を管理・運営する沖縄美ら島財団が、琉球漆器の収集、調査、復元、技術の継承を開始しました。2010年代以降は、漆の成分などの科学調査が進みました。琉球は古くから船で広く交易し、各地でいろいろなものを買い付けていましたが、その一つに漆がありました。漆の成分を分析することで、日本、中国、ミャンマー、タイ、ベトナムなど、どの地域から買い取った可能性が高いかを調査できるようになったのです。今後もさらに研究が進んでいくと思います。
◇ ◇ ◇
沖縄の歴史や風土が育んできた琉球漆器の魅力を味わっていただけたのではないでしょうか。2022年には「紡ぐプロジェクト」の一環で、東京や福岡でも大規模な琉球展が予定されており、実物を堪能しに出かけたいですね。次回は、琉球王国の文化財の復元事業の成果や、今後の展覧会の魅力などをうかがいます。
【伊禮拓郎(いれい・たくろう)】1994年、沖縄県南風原町生まれ。鶴見大学文学部文化財学科、沖縄県立芸術大学大学院修士課程を経て、2019年から沖縄県立博物館・美術館学芸員。担当した展覧会は、「朝薫踊り、順則詩う―琉球王国時代の偉人―」(19年)、「大嶺薫コレクション展」(20年)、「琉球王国文化遺産集積・再興事業 手わざ -琉球王国の文化ー」(20年から沖縄県立博物館・美術館、九州国立博物館ほか巡回。東京国立博物館では22年1月15日から 3月13日まで開催)、「復帰50年展『琉球―美とその背景―』」沖縄会場(22年10月14日~12月4日、沖縄県立博物館・美術館)。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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