2022.1.14
「遮光器土偶」(岩手県岩手町・豊岡遺跡出土)
岩手県立博物館(盛岡市)の金子昭彦・学芸員へのインタビュー。今回は、発掘調査を通じて多くの人々と交流してきたこれまでの道のり、そして、知られざる弥生時代以降の岩手の暮らしに光を当てる企画展についてうかがいました。
―小さいころから美術や文化財に興味がありましたか?
お恥ずかしながら、小学校1年生の1学期の通信簿では図工以外全部「1」で、絵だけが取りえだと思っていました。「描きたい」「発信したい」という気持ちが人一倍、強かったように思います。美術は好きで、小学3年生頃に東山魁夷の絵にものすごく感動して、裕福な友人の家で立派な画集を見せてもらった思い出があります。故郷の静岡県磐田市には大きな博物館や美術館がなく、中学生になると、隣の浜松市まで展覧会を見に行くようになりました。それでも考古学には興味がなく、通っていた高校は遠江国分寺の跡地に建っていたので、敷地内で発掘調査が行われていたのですが、それでも関心を持ちませんでした。
高校生のときに「人間の研究をしたい」と考えるようになり、大学で文化人類学を学ぼうと思いました。人々の話を聞いて、その地域の文化を知ることに興味があったのです。ですが、志望の大学には入れず、雰囲気が気に入った早稲田大学文学部に進学しました。自分の興味とは関係なく決めたので、入学後にすごく後悔しましたね。
2年生からは、当時新設された考古学専攻の第1期生になりました。文化人類学も勉強できるという触れ込みだったのです。それで夏休みに、初めて遺跡の発掘調査の実習に行きました。すると当然、夜は宴会になるわけです。学問自体には興味が持てなかったのですが、お酒を飲みながらいろいろな話を聞くのが楽しくて。本を読んでも筆者に質問できませんが、人が相手だと、自分が腑に落ちるまで聞くことができますよね。発掘調査はアルバイトにもなるので、いろいろな発掘現場に行きました。学問的な興味がなかったため、高名な先生でも、そうとは知らずに、物おじせずに話しかけて、かえって目をかけていただくこともありました。今の私は、おそらく考古学者に対する世間的なイメージ通り、あまり人と話をしないので、当時を振り返ると、我ながら信じられません(笑)。
それでも相変わらず、出土品には興味がありませんでした。とはいえ、お酒の席で考古学の深い話を聞いたり、本を読んだりするうちに、せめて卒業論文はしっかり書こうと思い、「考古学の中で一番人間に近いものは、なんだろう」と考えて、テーマを土偶にしました。早稲田大学の考古学専攻は青森にフィールドを持っていましたし、東北はお酒もおいしいので(笑)、調査地域は東北にしました。取り上げたのは、髪の毛が派手に結ってある「結髪土偶」や、点々模様がたくさんついている「刺突文土偶」で、制作時期ごとのデザインの変遷をたどりました。考古学の大きな目標は、当時の人々の生活を明らかにすることですが、なかなかそこまでは行き着きません。最初に行うのは、1万年以上もある縄文時代を、例えば、100年ごとに区切って出土品を分類していく作業です。やがて研究にのめり込むようになり、大学院では「今度は最も有名な土偶をやろう」と、遮光器土偶の研究を始め、今もそれを続けています。
―考古学の世界では、発掘調査とそれに続く宴席で、ネットワークが広がることが多いのでしょうか。
ええ、それが大きいですね。発掘調査はひとりではできませんし、お酒は人間をつなぎますから(笑)。発掘には、研究者のほか、大学院生や、大学卒業後に現場に勤められているかたも参加されます。今も時々、研究者仲間と若い頃を振り返って、あのときは誰と一緒に発掘調査をしたといった話題で盛り上がりますね。
―先にご紹介いただいた「遮光器土偶はお守りとして持ち運んだ結果、壊れたのではないか」という説が生まれた背景には、そうした数多くの発掘調査でのご経験があるのでしょうか。
ええ。発掘調査を通してさまざまな人に出会い、話をしてきたことが大きいと思います。「世の中には実にいろいろな考え方がある」ということを、身をもって知ることができました。「自分には考えつかないことを考えつく人がいるな」「反対の考えというのは常にあるものだな」「根拠なく一つの解釈を支持してはいけないな」といったことを学びましたね。一般的な解釈であってもすぐに受け入れずに、「それに根拠はあるのか」と疑問を持つことが大切だと気づいたのです。
大学院卒業後は、岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターに入り、県北部の縄文遺跡を中心に数多くの発掘調査に行きました。冬は雪で調査できないため、夏に発掘調査の進行管理を行い、冬は発掘結果を報告書にまとめるという繰り返しでした。納期に追われて、つらい思い出しかないですね(笑)。というのも、行政の遺跡地図に載っている場所で工事が行われる際には、発掘調査をすることが法律上、決まっており、前にあった建物や道路を壊したあと、新築工事が始まるまでの限られた期間内に発掘調査をしなければならないのです。
この決まりは、震災後の復興にも適用されるため、「復興の壁」といわれることもあります。これまでも各地での大震災のたびに、全国から発掘調査できる人が集まって急いで調査をしてなんとか切り抜けてきました。東日本大震災の際には、岩手県にも、遠く九州も含め各地から応援に来ていただきました。
ちなみに現在は景気が悪く、人口も減っているため、全国的に工事の数が減り、おのずと発掘調査の数も減っています。
―岩手県立博物館で2022年2月6日まで開催中の展覧会「教科書と違う岩手の歴史―岩手の弥生~古墳時代―」についてお聞かせください。
岩手は遮光器土偶の出土数が日本一であることからもわかるように、縄文時代にたいへん栄えました。しかし、縄文時代が終わる少し手前の時期に、遮光器土偶は作られなくなりました。実はその頃、稲作文化が近畿地方まで広がっていたのです。縄文時代というのは意外なほど地域間の往来が盛んでしたから、西の地域の人々が米作りを始めたという情報が、ほどなくして東北にも届いたと思います。東北の人々は衝撃を受け、「今までのままではいけないのでは」と考えて社会が変化し、遮光器土偶も作られなくなったのだと思います。
―メンタリティーが変わり、呪術的なものから現実志向へとライフスタイルが変わっていったということでしょうか。
ええ、そうした動きなのかもしれません。とはいえ、稲作は、東北の寒冷な気候には向きませんでした。また、銅鐸などの青銅器を日本へともたらした朝鮮半島からも遠く離れているため、銅鐸が出土するのは東海地方から西の地域で、東北や北海道ではこれまで1点も出土していません。こうした背景から、岩手は弥生時代に一気に貧しい地域となったわけです。その一方で、北海道とのつながりが強まりました。北海道からの移民から教わりながら、鮭や熊などの狩猟をして加工し、交易で米や金属の道具と交換するようになったのです。今回の展覧会では、一般的な弥生時代のイメージである農村風景とは異なる、岩手の弥生時代を広く知っていただけたらと思います。
―出土品から、そのように当時の人々の暮らしを想像するのが、考古学の楽しさの一つでしょうか。
そうですね。モノに表現されるのは生活の中のほんの一部なので、数少ない証拠から当時の暮らしを想像するのはものすごく難しいですが、それでも、モノを通してでないと知ることができないわけです。皆さんも、博物館にいらしたら、好きな展示品を見つけることに加えて、知識を増やすことで、楽しみをさらに広げていただけたらと思います。例えば、土偶は平らなので自立しないということを知っていれば、展示室で土偶を見たときに、「自立できないから支えがついているのだな」と気づくことができますよね。また、年齢を重ねるごとに、見方や感想が変わっていくと思いますので、折々に博物館に来ていただけたら、うれしいです。
◇ ◇ ◇
考古学の発掘や研究の知られざる世界、いかがでしたか。博物館で土偶や土器に出会ったら、金子さんのお話を思い出して縄文時代の様子を想像しながら見ると、より深く楽しむことができそうですね。
【金子昭彦(かねこ・あきひこ)】1964年生まれ。静岡県磐田市出身。90年、早稲田大学大学院文学研究科史学(考古学)専攻修士課程修了、岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター入所(文化財専門調査員)。2015年、岩手県立博物館に配置転換(主任専門学芸員)。17年、企画展「遮光器土偶の世界」を担当。20年、上席専門学芸員、21年から学芸第一課長。著書に「遮光器土偶と縄文社会」(01年、同成社)、編著に「月刊考古学ジャーナルNo.745 特集 今日の土偶研究」(20年、ニューサイエンス社)のほか、土偶に関する論文、寄稿多数。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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