江戸幕府御三家の筆頭・尾張徳川家の居城だった名古屋城。幕府を開いた徳川家康の命で慶長15年(1610年)、豊臣方が残っている大坂への備えとして築造された。明治期には「日本城郭の見本」と称されたが、国宝の天守は惜しくも戦災で焼失してしまった。
総延長8.2キロに及ぶ石垣は元豊臣家臣の外様大名によって築かれた。現存する石垣では大阪城、江戸城に次ぐ規模で、近世期の威風と名古屋城の歴史の重厚さを伝える。
ただ、堅固な石垣も、上部の重みで下部がふくらみ出すなど、修復が必要な箇所が出てきた。本丸東に位置する「本丸
工事には、国の選定保存技術の保持団体である文化財石垣保存技術協議会が名古屋市に協力する。技術者や研究者の専門家集団が「実務経験が養える場所は重要」と後進育成の貴重な機会として取り組む。
名古屋城の修復を通じた文化財の技術継承は、18年に完了した本丸御殿の復元でも実証済みだ。
将軍の名古屋での宿泊所として建造された「上洛殿」など、
大工の統括役を担った魚津社寺工務店(名古屋市)の魚津源二会長(82)は材木選びや、建物の美しさを左右する屋根の曲線の表現にこだわった。「地元の職人にとって名古屋城の復元に携わるのは誇り。悔いのない仕事ができた」と話す。
名古屋城は、戦後にコンクリート造で再建した天守に代えて、木造で天守を復元する計画を22年度中にもまとめたい意向だ。名古屋城総合事務所の鈴木昌哉・保存整備室長は「石垣などの遺構を守る『保存』と江戸期の姿を正しく理解してもらうための『活用』を重視しながら整備を進めたい」とする。
(読売新聞文化部・多可政史)
(2022年4月3日付 読売新聞朝刊より)
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