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2019.11.15

【橋本麻里のつれづれ日本美術】紙はただの引き立て役にあらず その美と分割の技

国宝 《三十六人家集》のうち「重之集」 平安時代 12世紀、京都・本願寺蔵、11月12日~24日展示(※ただし、頁替があります)

「料」とは「器具、衣服、飲食物など、何かの用にあてる物。ある物事に使用する物」のこと(小学館『日本国語大辞典』JapanKnowledge版)。それが「料紙」となれば、文字をしたた めたり、絵を描いたりするために用いる紙一般を示す。現在ならば「用紙」と同じことだ。

そもそもの始まりは、やはり中国だ。中国では後漢の時代に紙が染められるようになり、日本へもまずこのような染紙そめがみがもたらされた。また文字や絵を描きやすくするため、その表面を石や猪牙などで磨く「砑光」、紙に粘液で湿りを与え、木槌きづちで叩いて打ち締める「打紙」などの加工も行われるようになった。正倉院文書には膨大な染紙の名称が記され、その中には既に、箔や砂子を撒いたものも見受けられる。

奈良時代に完成した染紙は、続く平安時代、和様化された色彩感覚に叶う中間色を増やし、あるいは染めの技法のバリエーションを駆使し、打雲紙うちぐもがみ羅文紙らもんし飛雲紙とびぐもがみなどが生み出された。たとえば飛雲紙は、き染めの一種で、藍や紫に染めた紙を再び繊維の状態に戻し、それを白紙の上に流して、雲のような点景を表す技法によって作られる。

そして平安時代には、料紙装飾のもうひとつの頂点「唐紙からかみ」が登場する。「空の色したる唐の紙に」(『源氏物語』葵)、「唐の色紙芳しき香に入れ染めつつ」(同玉鬘)のように、中国の紙、色紙についての言及は、平安時代の文学作品にたびたび見ることができる。これらは舶載の紙の総称で、必ずしも版を用いて文様をりだした、いわゆる「唐紙」(中国では「彩箋」)のみを指す言葉ではない。

版木で文様を摺りだした唐紙(彩箋)の最古の遺例は、11世紀初頭の藤原行成《書巻(本能寺切ほんのうじぎれ)》に遡る。小野道風、藤原佐理すけまさと共に「三跡さんせき」と称えられる能筆の藤原行成は、藤原道長の右腕として仕えた貴族でもあり、まさに『源氏物語』の時代と活動期がぴたりと重なる。

やがて12世紀を迎えると、日本でも自分たちの好みに合わせた、唐紙の翻案が試みられるようになる。妙な言い方だが、この時代に「和製の唐紙」を使用した遺例は17件ほど、文様の種類は60例以上が確認されている。さらに上等の紙となれば、金銀の砂子や箔を散らし、文様を摺り出し、金銀泥で下絵を描き、紙自体を破り継ぎ、重ね継いで、と多彩な手法を駆使した装飾が施された。

紙と書による爆発的共鳴

こうした料紙は、紙そのものが自立して鑑賞される作品、ということではなく、あくまで書や絵を引き立て、演出する「従」の立場にある──はずなのだが、中には書き手や発注者の美意識から生まれた料紙と、時代や流儀によって変遷した書風とが、共鳴し、挑発し合い、「1+1=2」以上の爆発的な創造性を発揮する例もある。その極致といえるのが、本展に出品された西本願寺所蔵の国宝《三十六人家集》だ。

前回書いたとおり、藤原公任きんとうが選び抜いた、飛鳥時代〜平安時代の名だたる歌人たちを、人物ごとに冊子にまとめたもの。もとは39じょう1具で、この時期の料紙装飾のすべての技法を包括している。 現存するものは(冊子、「石山切いしやまぎれ」などの断簡を含む)34帖分、その中に680枚余の料紙が使用され、半数近い301枚は唐紙・蝋箋ろうせん、文様は54種に及び、舶載の唐紙・蝋箋は14種、和製の唐紙は40種類が確認されている(『彩られた紙 料紙装飾』徳川美術館、2001年)。

この冊子がつくられた平安時代末期は、日本文化史上、もっとも華麗で荘厳な美が追究された時代であり、《三十六人家集》はそうした美意識の結晶とも言える。他にも仏像や装飾経、経箱などに優品が残るが、その中のひとつとして、三十六歌仙とその歌が選ばれたところに、歌仙への尊崇の念が現れている。

表裏に和歌が書かれた1枚の紙を、2枚に分ける方法

今回の展示には、冊子の形態のまま残った《三十六人家集》の中から、「躬恒集」「素性集」「重之集」「興風集」が出展されたのに加え、《石山切》からも3点が出展されている。「佐竹本」の分断ばかりが話題になっているが、実はこちらでは、さらに高度な──アクロバティックな「手術」が施されている。

《三十六人家集》は見てのとおり、破った紙をパッチワークのように貼り合わせる「破り継ぎ」の手法で、1枚の頁を構成している。抽象的な構成もあれば、ちぎり絵のように、山の景色を想像させる表現などもある。いずれにしても、異なる色に染めた別々の紙を貼り合わせて1枚の紙に仕立て、その裏表に和歌を書いて、冊子の形にまとめている。

ところが昭和4年(1929)、本願寺は女子大学創設のための資金をつくるため、この中の「伊勢集」「貫之集下」の2巻を分割することになった。「佐竹本」と似たようないきさつだが、これはただ糊で貼った個所を剥がしさえすればいい、というものではない。冊子の頁であるため、1枚の料紙の表裏に和歌が書かれており、どちらかを犠牲にして表具してしまう、という選択肢はあり得ないからだ。

ではどうするか。まず冊子を1枚ずつの料紙にバラし、次にパッチワークの糊付けを剥がして、断片に戻す。このパズルのピースのように不定形な1枚の和紙を、表面と裏面の2枚に分かれるよう、きれいに剥ぐ。2枚になった断片を再び貼り合わせると、頁の表面、裏面が、1枚ずつ独立した断簡に仕上がる……。和紙でなければ不可能な「手術」だが、こうして「石山切」も、各地のコレクターの元へ渡った。

実はこの時の分割にも益田鈍翁どんおうが深く関わっている。本願寺がかつて摂津石山(現在の大阪城付近)にあったことから、これら断簡を「石山切」と名づけたのは鈍翁なのだ。

そして展覧会にはもう1点、鈍翁ゆかりの「切断」作品が出展された(11月4日で終了)。現在は東京国立博物館所蔵の、《紫式部日記絵巻断簡》(重要文化財)がそれだ。

『源氏物語』の作者、紫式部が残した回想録『紫式部日記』を元にした絵巻で、「柿本人麻呂(佐竹本)」の所有者であった森川勘一郎(号 如春庵)が、大正9年(1920)に、全5段からなる絵巻1巻を入手。昭和7年(1932)、鈍翁が1〜4段を購入し、その中の第3段、敦成あつひら親王(後一条天皇、道長が待ち望んだ最初の外孫皇子)生誕の五十日の祝賀の場面を分割した。これを昭和8年(1933)、宮家を招いて催した、明仁親王(現上皇陛下)生誕を祝う茶会の床に、堂々と掛けたのである。

「佐竹本」も同様だが、数寄者たちは自らの美意識と注ぎ込める限りの資金をかけ、まさに「切った張った」の末に手に入れた道具を、ここぞという茶会の華として掲げたのである。

あわせて読みたい

特別展『流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美』 

【臨時開館のお知らせ】 11月18日(月)9:30~18:00(入館は17:30まで)

橋本麻里

プロフィール

ライター、エディター。

橋本麻里

新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術を楽しく、わかりやすく解説。著書に「美術でたどる日本の歴史」全3巻(汐文社)、「京都で日本美術をみる[京都国立博物館]」(集英社クリエイティブ)、「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」(新潮社)、共著に「SHUNGART」「北斎原寸美術館 100% Hokusai !」(共に小学館)、編著に「日本美術全集」第20巻(小学館)ほか多数。

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