江戸時代前期の国学者が記した本には、「ひひな遊び」、今でいう人形遊びについての古い記録が伝えられています。
平安時代の10世紀、斎宮女御が村上天皇と一緒に行った人形遊びと考えられ、男雛と女雛に想いを託して、和歌を交わしたというものです。
こうした若い男女の人形遊びが、やがて子どもの人形遊びへと変化したと考えられています。
11世紀初めの作といわれる「源氏物語」には、様々な季節に、少女たちが人形遊びをする場面が出てきます。
そのひとつ、第7帖の「紅葉賀」では、10代初めの若紫(のちの紫の上)が「ひひな遊び」に熱中しており、光源氏はそれを見て微笑みながら声をかけます。当時の姫君は10代前半頃に成人の儀式を迎えて結婚する習わしだったため、乳母は若紫に、人形遊びをそろそろ控えるようにとたしなめています。
このように京都の貴族社会では古来、幼い姫君たちが人形遊びを楽しみました。当時の人形は紙の胴体に衣装を着せた簡単なもので、それとは対照的に、人形遊びに使うミニチュアの道具は豪華な作りだったようです。
時を経て、江戸時代後半、江戸の武家文化のなかで雛祭りが確立し、座った姿の内裏雛が広まります。江戸幕府は公家との婚姻政策を行っていたため、雛祭りの風習はおのずと京都の公家社会にも普及しました。
各種の内裏雛のなかでも、京都の人形師で幕府御用をつとめた雛屋次郎左衛門が創始したとされる「次郎左衛門雛」は、武家と公家の両方に重用されました。その一方で、公家オリジナルの内裏雛である「有職雛」も生み出されます。
「有職」とは、公家や武家の儀式・行事・官職などに関する知識のことで、有職雛は、そうした有職にのっとって作られた雛人形です。
製作を担ったのは、宮中に仕えて装束の製作をつかさどっていた山科家と高倉家と伝わります。公家は位階や年齢、季節によって装束が異なるため、そうした決まりに基づき、髪形から衣装の形式、色柄、織りまで忠実に再現しました。なかには、足や手首を曲げることができ、着せ替えできる人形も伝来しています。
みなさんは、「尼門跡」という言葉を聞いたことがありますか?
皇族や公家、将軍家の姫君が出家し、歴代の住職をつとめた尼寺のことです。
皇室ゆかりの御所文化のなか、皇女たちは仏教の修行や儀式のほか、文学や芸術にも親しみ、調度や道具類、室内の装飾にいたるまで王朝風の生活を送りました。住まいの一部が御所から移築された尼門跡も知られます。
なお、「尼門跡」という名称は近代以降に普及し、中世・近世には「比丘尼御所」や「尼御所」と呼ばれていました。
歴代の天皇は、娘が出家して尼門跡に入ると、節目ごとに有職雛などの人形を贈りました。美しい人形が、幼くして親元を離れた姫君たちの心を慰めたのでしょう。現在、京都・奈良に残る13の尼門跡には、御所から届けられた由緒正しい人形が数多く伝わっています。
その代表格が、「人形寺」として知られる宝鏡寺です。
寺を開いたのは、南北朝時代の光厳天皇の皇女、華林宮恵厳禅尼です。後光厳天皇から宝鏡寺の寺号を賜り、のちに「百々御所」とも呼ばれました。
宝鏡寺に伝わる人形のなかでも有名なのは、光格天皇が娘の霊厳理欽尼に贈った美しい有職雛です。同じく霊厳理欽尼ゆかりの雛道具は、本物を忠実に再現した上品なデザインで、幼い皇女がミニチュアの御膳にごちそうを盛り付け、雛人形に供えて遊ぶ様子が想像されます。
それらの寺宝は長らく非公開でしたが、昭和32年(1957年)から宝鏡寺で人形展が行われるようになりました。現在では毎年、春と秋に人形展、秋には人形供養祭も営まれており、境内には人形塚があります。京都にお出かけの際には、ぜひ王朝文化の薫り高い人形たちを訪ねてみてください。
尼門跡には、有職雛のほか、御所人形も多く伝わっています。御所人形とは、白い肌でふっくらとした赤ちゃんのような人形で、座る姿、這い這い、立ち姿などがあります。江戸時代後期、公家や武家に愛玩されました。生命力あふれる姿に、わが子の健やかな成長を願う親の祈りが託されたのでしょう。
最後に、雛人形を飾るときに多くの方が疑問を抱く、男雛と女雛の並びについてご紹介しましょう。左右どちらに飾ればいいのか、ご存じですか? 実はどちらでもOKなのです。
日本では伝統的に左側を大切にする風習があり、これにならったのが、右に男雛、左に女雛の並べ方といわれます。女雛から見て左側に男雛を置く、というわけです。
そして、左に男雛、右に女雛を置く形式は、昭和天皇の即位式での両陛下の位置に準じたものと伝わります。
雛人形を展覧会で見るときには、そうした人形の並びにも目を向けると楽しいですね。 2020年2月に埼玉県の人形の町、岩槻に開館した人形博物館では、 8月23日 (日)まで開館記念名品展「雛人形と犬筥・天児・這子」が開催中です。この機会にぜひ、みやびな有職雛をはじめ、華やかで奥深い雛人形の世界をご堪能ください。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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