中世の日本では、多くの庶民にとって「この世」は辛いことの多い憂鬱な「憂き世」でした。仏教の教えのもと、早くお迎えが来て幸せな「あの世」に行きたいと願っていたのです。
時を経て江戸時代、太平の世を迎えると、全国の大名が参勤交代で江戸に滞在するようになり、また、明暦の大火ののちには復興のため地方から労働者が集まって、江戸はますます活気に満ちました。経済が発展し、裕福な町人が新たな文化の担い手となります。
おのずと庶民の人生観も変化し、「どうせなら今生きているこの世を浮き浮きと楽しもう」と、「憂き世」は「浮き世」へと変わりました。それまでの江戸文化は、ことごとく上方からの影響でしたが、これを機に明るい江戸独自の文化が芽生えたのです。町人も華やかなきものをまとって芝居を見たり、屋台や茶店で舌鼓を打ったりと、暮らしを楽しむようになりました。
京都や大坂から伝わった出版文化も発展しました。版元たちは庶民受けを狙って、墨摺りのモノクロ木版印刷で「仮名草子」と呼ばれる親しみやすい読み物を売り出し、やがて挿絵入りの大衆小説「浮世草子」も発売。その先駆けが1682年に刊行された井原西鶴の『好色一代男』です。初め、西鶴の地元・大坂で大ヒットし、その後、江戸でも出版されました。この江戸版の挿絵を担当したのが、今回のコラムの主人公、菱川師宣です。
やがて、浮世草子の挿絵が組物の一枚絵に独立。「浮世絵版画」の誕生です。大量印刷なので値段も安く、町なかの絵草紙屋の店頭などで気軽に買うことができました。
ところで、浮世絵は版画だけではなく手描きの絵もあり、「肉筆浮世絵」と呼ばれます。そのルーツは、安土桃山時代以来、上層階級からの注文で絵師が描いた「洛中洛外図屏風」。京都の街並みに大勢の人々を描き込んだ景観図です。やがて江戸時代初期に、遊里の様子を描いた『彦根屏風』が制作され、さらにはそうした絵から抜け出たような美人の全身像「寛文美人図」が登場しました。これが肉筆浮世絵へと発展します。
菱川師宣は、こうして生まれた「浮世絵版画」と「肉筆浮世絵」、総称して「浮世絵」を手がけた先駆者で、そのため「浮世絵の祖」と呼ばれます。
師宣の出身地は、安房国保田。東京湾に面した千葉県南部です。高級呉服の産地で、父はきものの生地に刺繍や摺箔をほどこす縫箔師でした。美しい色や模様、デザインに囲まれて育ったのですね。16歳頃、江戸に出て、狩野派、土佐派、長谷川派の画風を学んだといわれ、やがて版本の挿絵の仕事に携わりました。
とはいえ、当時は浮世絵師の社会的地位が低く、初めは挿絵を手がけた本に師宣の名前は載りませんでした。ようやく名前が掲載された1672年刊行の『武家百人一首』は、町絵師のなかでも最初期といわれます。絵師の重要性が認められたのです。
やがて、前述の江戸版『好色一代男』の大ヒットによって一気に名をあげました。生涯に100種を超える絵本と、50種以上の好色本の挿絵を担当し、さらに屏風・絵巻・掛軸と様々な形式で肉筆浮世絵を手がけています。絵の主題は、歌舞伎や遊里、隅田川や花見の名所に遊ぶ人々や遊女、古典文学や和歌を主題にしたものから、風景、花鳥、人物、春画まで。工房を構えて弟子を育て、そのおおらかで優美な作風は、浮世絵の基本様式となりました。
師宣は縫箔師の息子らしく流行に敏感だったので、画中の人物のきものの描き分けもお手のものでした。
さまざまな小袖のデザインを掲載する冊子「小袖模様雛形本」も複数手がけています。小袖模様雛形本に携わった数多くの絵師のなかでも、師宣の知名度は断トツ。小袖を注文するときのデザインブックとしての実用性よりも、女性の着姿などのイラストを眺めて楽しむファッション雑誌としての性格が強い内容です。
ファッション通の師宣が描いた美人画は、当然ながらファッショナブルでした。最晩年の作といわれる『見返り美人図』は、昔の切手のデザインでご存じの方も多いでしょう。
振り袖を着た若い娘のすらりとした立ち姿。面長の輪郭にきりっとした目。長い髪を折り返して結ぶヘアスタイルは当時流行の「玉結び」で、前髪をポンパドールのように膨らませ、高価な鼈甲の櫛や笄を挿しています。
生地は、綸子という光沢のある高級絹織物。高価な紅で赤く染め、小花模様の地紋を織り出し、当時流行の「花の丸」模様を表しています。
帯は、現代の着付けと比べると、かなり低い位置で結ばれています。これは「吉弥結び」といい、京都の女形の歌舞伎役者・上村吉弥が舞台で披露して流行らせたスタイル。吉弥は祇園で目にした女性の着こなしを見てインスピレーションを得たといい、幅の広い帯の両端に鉛のおもりを縫い込んで、結びの両端がだらりと下がるようにしています。
以上のように師宣は、この美人図に最高級のトレンド・ファッションを詰め込みました。
手先は出さず、裾を引きずりながら歩く姿は、労働に無縁な女性のいでたちです。振り袖姿なので結婚前の裕福な商家の娘か、あるいは若い遊女でしょうか。振り向くポーズも秀逸で、流行の帯結びと美人の顔を同時に楽しむことができますね。視線の先に誰がいるのかも気になります。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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