「琳派」は、毎年どこかで展覧会が開催されるほど人気の流派です。代表的な3人の絵師、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一の名をご存じの方は多いでしょう。
でも実はこの3人、お互い顔を合わせたことがありません。生きた時代が違うのです。宗達は江戸時代前期の京都、光琳は江戸中期の京都、そして抱一は江戸後期の江戸で活躍しました。
今回のコラムでは、琳派の先達・俵屋宗達をご紹介します。
宗達は作品に制作年を記すことがほとんどなく、関連資料もわずか。そのため、その生涯は謎に包まれていますが、さまざまな絵の注文に応える絵屋を京都で営んでいたといわれます。同時代の読み物に、人気の扇屋として「俵屋」が出てくることも知られます。
宗達一門の扇は、後世の愛好家が金屏風に貼り付けて愛蔵したため、今に伝わりました。扇の面は湾曲しているため、絵師には優れたセンスが求められます。宗達は、図柄を扇の曲線に沿わせたり、あるいは逆らわせたりして配置し、充実した構図を作り上げました。
おそらく30歳前後だった1602年には、平安時代の名宝『平家納経』の修復事業に携わったといわれます。宗達が担当したとされる3巻の表紙と見返し絵は、金銀をふんだんに使った雅な作風で、この仕事を通して平安時代の装飾美を学び取ったのでしょう。
この頃、世の中は江戸時代へと移り変わり、江戸が政治経済の中心になる一方、天皇や公家が暮らす京都では上層町衆が経済力を高めていました。彼らは伝統的な貴族文化を好み、宗達の支持層となっていきます。宗達も彼らと同じ有力な町家出身といわれ、価値観を共有していたのでしょう。
やがて宗達は、時代を代表する芸術的指導者・本阿弥光悦と出会います。光悦は刀剣の手入れや目利きなどを行う名門の出身で、優れた書家であり、さまざまな作家との共同制作を統括した偉大なアートディレクターでもありました。
2人は数多くの合作を生み出しました。光悦が和歌を書く色紙や短冊、巻物に、宗達があらかじめ金泥や銀泥で、花や鳥、動物の下絵を描いたのです。紙を美しく雅に装飾する平安時代の美意識がここに蘇りました。
金泥、銀泥とは、金箔、もしくは銀箔を膠で溶いて絵の具にしたもので、筆につけて描くことができます。濃淡の表現も自在で、その輝きは控えめで上品。宗達はときに密に、ときに余白を大きくとって絵を描き、光悦はその抑揚に呼応するように書の濃淡や太さ、強弱を変化させました。
なかでも有名な「鶴図下絵和歌巻」は、13メートルを超える巻物です。宗達は、鶴の群れが飛び立ち、海を渡り、天空に舞い上がり、岸辺で羽を休めるさまを、金銀泥のたっぷりとした筆遣いで描きました。変化に富み、流れるような構図はさすがのセンス。これほどの絵と調和するには、光悦の書にも強さと奥深さが求められます。天才同士の共同制作は、光悦が徳川家康から拝領した鷹ガ峰の地に芸術村を開く1615年頃まで続いたといわれます。
宗達は水墨画でも革新を起こしました。古代、中国から日本に伝わり、漢画と呼ばれていた水墨画を、親しみやすい「和」の世界に引き寄せたのです。力強い狩野派とは異なる柔らかく穏やかな画風で、「やまと絵水墨画」とも呼ばれます。
描くテーマも、禅宗に根差した格式高い山水画ではなく、身近な動植物でした。絵で力を誇示するのでも、教えを説くのでもなく、いわば遊びの感覚でのびのびと描いたのです。
とりわけ人気の高い「狗子図」に描かれているのは、野に遊ぶ丸っこい子犬。立体的なフォルムは、宗達が発明した「たらし込み」の技法によるものです。子犬の体に墨を塗ったあと、乾かないうちに濃さの違う墨を部分的に加えることで、複雑な濃淡を生みだし、立体感や質感を表現しました。墨の流れや染み込みかたは偶然に委ねることになりますが、宗達は、墨を加えるタイミングと量を見計らいながら、その偶然性をも巧みにコントロールしています。
宗達はまた、金碧画にもその才能を発揮しました。金箔を敷き詰めた大画面に、極彩色の絵の具をふんだんに使って描いたのです。
京都の公家や上層町衆が好む貴族の伝統を反映したその画風は、当時画壇の主流であった武家好みの勇壮な狩野派とも、やまと絵の伝統を担った宮廷絵師・土佐派とも異なります。土佐派は『源氏物語』の各場面を緻密に描いた色紙で人気を博していましたが、宗達は、そうした古典文学の場面をシンプルな構図でおおらかに描きました。
なかでも代表作といえば、美術ファンならだれもが知る「風神雷神図」(TSUMUGU Gallery参照)です。
屏風の左右に向かい合う風神と雷神には緊張感が漂い、中央に大きく取られた余白が広大な天空を表しています。風神・雷神の姿には迫力がみなぎると同時に、どこか親しみやすく人間的。周囲に漂う雲には、銀泥を混ぜた墨を使い、たらし込みの技法で軽やかさを表現しています。
宗達はこの「風神雷神」の図像を「天神縁起絵巻」から転用したようです。古い絵からモチーフを取り出して描くのは古来の伝統で、宗達もその名手でした。独創的なセンスで、新たな絵画のなかで再生させたのです。
宗達は晩年、町絵師としては破格の「法橋」の位を朝廷から授かり、宮中の仕事にも携わりました。その死後、江戸時代中期に尾形光琳が宗達芸術に心酔してその美意識を受け継ぎ、後世、この系譜が「琳派」と呼ばれることとなります。「風神雷神」は、尾形光琳と酒井抱一がそれぞれ時を隔てて模写し、いわば琳派のアイコンとなりました。
なお、宗達の代表作のひとつ「雲龍図屏風」は、明治時代にアメリカの実業家チャールズ・フリーアが購入し、ワシントンのフリーア美術館に所蔵されています。そうした海を渡った名品を美術館のサイトで鑑賞するのもおすすめです。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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