巌流島の決闘で有名な剣豪・宮本武蔵が、優れた絵師でもあったことはご存じでしょうか? 「二天」の号でも知られ、武蔵筆と伝わる数十点の水墨画のうち4点が重要文化財となっています。
武蔵に関する史料は数少なく、自ら武道の奥義を記した『五輪書』は写本のみが伝わり、死後に養子の宮本伊織が巌流島近くに建てた石碑や、1世紀以上のちに刊行された伝記『二天記』などをもとに研究が行われてきました。
一方、江戸時代半ば以降、武蔵を主人公にした歌舞伎や浄瑠璃、講談や読本が人気を博し、現代に至るまで名だたる俳優が演じてきました。昭和初期には、吉川英治の小説『宮本武蔵』が大ヒット。近年ではこの小説をもとにした、井上雄彦のマンガ『バガボンド』が人気ですね。
こうした過程で、フィクションが事実を凌駕するような、作り上げられた武蔵像が広く世間に浸透しました。武蔵は、時代ごとにその理想像が上書きされる、不滅のヒーローといえるかもしれません。
『五輪書』に、生まれは播磨国(現・兵庫県)と記されます。戦国時代末期の1584年、織田信長が本能寺の変で討たれた2年後のことでした。
実の父母は定かでなく、義理の父は、黒田官兵衛率いる黒田家に仕えた、名うての剣術家・新免無二斎と伝わります。武蔵は数え13歳にして新当流の有馬喜兵衛を破り、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝ったといい、ここに無双の武勇者の伝説が始まります。
世の中では、1590年に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げるも、その8年後に逝去。
1600年には、関ヶ原の合戦で徳川家康が勝ち、江戸時代が幕を開けました。
武蔵は21歳で京都の吉岡一門に勝って名を上げ、その後、流浪の旅に出て、全国各地のつわものと剣を交えたと伝わります。二刀流、奇襲の達人のイメージで知られますね。13歳以来、60回を超える試合すべてに無敗だったとか。ちなみに、佐々木小次郎との巌流島の決闘は『五輪書』には記述がなく、武蔵にとっては数ある試合の一つに過ぎなかったのかもしれません。伊織が建てた石碑には、相手は「岩流」とのみ記されており、「佐々木」の名は後世に創作されたものともいわれます。
1615年、徳川家康が大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしました。武蔵は30代を迎えて武者修行を終えており、徳川方で戦功をあげたという説もあります。
下克上の世から、太平の世へ。故郷・播磨で兵法の修練に励み、20年後、ついに剣術の極意を会得したとか。50歳頃には和歌や茶道、書画などに親しんで暮らしたと伝わります。
51歳の頃、播磨国の明石城主・小笠原忠政(のちの忠真)が豊前国の小倉藩(福岡県北九州市小倉)に配置替えとなったのにともなって小倉へ移り住み、島原の乱では幕府方で戦ったともいわれます。1640年には、忠政の義兄弟・細川忠利が治める肥後熊本藩を訪れ、歓待を受けたといい、翌年、忠利が世を去ったのちも熊本にとどまり、余生を送りました。細川家の菩提寺・泰勝寺の住職・春山玄貞、あるいはその師・大淵玄弘に参禅したと伝わります。
世に名高い兵法書『五輪書』を書き始めたのは、還暦を迎えた1643年のこと。岩戸山に登って観音を礼拝し、霊巌洞という洞窟で瞑想したといわれます。しかし、完成後、病に倒れ、62歳で世を去りました。死の7日前、『五輪書』の草稿と、21の信条を記した『独行道』を門弟に与えたといわれます。
今に残る武蔵の水墨画や書は、最晩年を過ごした肥後に伝わりました。
吉川英治の小説『宮本武蔵』に描かれる沢庵和尚が武蔵に道を示したという話はフィクションですが、沢庵の「剣禅一如」の教えは有名です。「剣道の究極の境地は、禅の無念無想の境地と同じ」という意味です。
剣の修行と参禅を通して、心に迷いのない境地に達したのでしょう。武蔵の水墨画は、その剣さばきを彷彿とさせる、研ぎ澄まされた筆遣いが魅力です。命がけの決闘を重ねることで、物事の本質を捉える眼力が備わったのかもしれません。絵には気迫や生命力が満ち、それはまさに、絵画の理想とされる「気韻生動」の極致といえるでしょう。
武蔵は水墨画の高度な技法をマスターし、墨の濃淡、にじみやかすれを巧みに操りました。その画技には、中国の13世紀の大家である梁楷、玉澗、牧谿、そして武蔵が30歳前後の頃に世を去った桃山画壇の巨匠・長谷川等伯や海北友松の影響が指摘されています。
枝にとまる鳥の絵は、武蔵の十八番でした。重要文化財「枯木鳴鵙図」には、小さな虫が這い上がる枝の先に、くちばしの鋭い鵙がとまる緊張の場面を描いています。枝は下から上へと一息に描かれ、かすれた墨線にまでエネルギーが満ちています。
武蔵の絶筆『独行道』には「仏神は貴し、仏神をたのまず」という一条があり、武蔵は信仰に頼ることはなかったようですが、達磨や布袋を尊び、好んで描きました。
中国禅宗の開祖・達磨は、120歳の時、インドから中国へ行き、梁の皇帝と問答したのち、蘆の葉に乗って揚子江を渡り、少林寺で9年間、壁に面して座禅して悟りを開いてから、来日したと伝えられます。この伝説の各場面を、顔は緻密に、衣は少ない筆数で大胆に、そして鋭いまなざしに不屈の精神を宿す高潔な姿に描いています。
一方、布袋は古代中国の禅僧です。太鼓腹の福々しい姿。大きな袋を杖に吊して施しを受けて暮らしたといい、弥勒菩薩の化身と崇められました。日本では七福神の一人ですね。武蔵はその姿を可愛らしく描き、特に、大袋の上で頬杖をついて昼寝をする「午眠布袋図」はユーモラス。武蔵のおちゃめな一面をしのばせます。
『五輪書』によれば、武蔵は様々な芸術を吸収し、日々、画技を磨いて、邪念を捨て、無我の境地に達した状態で、心の目と肉眼の両方で見て描くことを信条としていたようです。
江戸時代後期の画家・谷文晁は、「武蔵は技術ではなく魂で描いたので、その作品を模写することはできない」と言ったとか。みなさんも武蔵の絵を見る機会があれば、ぜひその魂を感じてみてください。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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