戦乱が打ち続き、織田信長、そして豊臣秀吉が覇者となった安土桃山時代。桃山画壇を代表する3人の巨匠といえば、前回、前々回とご紹介した、狩野永徳、長谷川等伯、そして残る一人が、今回ご紹介する海北友松です。
友松は「竜の名手」として知られます。京都・建仁寺の襖絵をはじめ、その水墨画に見覚えがあっても、友松の名を知らないかたは多いかもしれません。このコラムを通して、ぜひファンになっていただけたらと思います。
友松の父・綱親は、近江(現・滋賀県)の浅井家の重臣でした。しかし1535年、君主・浅井亮政(浅井長政の祖父)のもとで戦い、命を落としたと伝わります。これを機に友松は、わずか数え3歳にして京都・東福寺に入ったといわれ、この大きな禅寺で和歌や茶の湯などの教養を身につけながら成長したようです。
のちに友松は、画壇の主流・狩野派に入門し、水墨画ややまと絵の研鑽を積んだとされます。師匠は、狩野派のリーダー・狩野元信、あるいはその孫・永徳といわれます。永徳は幼いころから画業に邁進した天才絵師でしたから、10歳年上の友松が師事したとしても不思議はありません。
その後の友松は、人が人を呼ぶ、戦国時代の濃密な人間関係の中で活躍の場を広げました。
まず語るべきは、2人の親友です。
そのひとり、斎藤内蔵助利三は、明智光秀の重臣でした。
しかし、利三は、光秀が本能寺の変で主君・信長を討った咎で処刑されます。ちなみに利三の娘は、のちに江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母・春日局となり、友松の息子・友雪を幕府の御用絵師に引き立てたと伝わります。
もう一人の親友は、天台宗の寺・真如堂東陽坊の住持・長盛です。千利休のもとで茶を学び、幅広い人脈を持ちました。
友松は、長盛の茶友を通じて、歌人として名高いインテリ武将・細川幽斎の知遇を得ます。
さらには、おそらく長盛や幽斎を通じて、なんと天下人・秀吉に謁見しました。というのも、2人の共通の友人に、秀吉に仕えた医者・施薬院全宗がいたのです。
記録によれば、全宗の屋敷で絵を描く友松を見た秀吉は、その腕前に感心し、「海北綱親(友松の父)は私の軍法の師である。心置きなく伏見城に来るように」と言って、贈り物を授けたとか。友松はその後、伏見城の座敷に絵を描いたとも考えられています。
友松は還暦を過ぎて、さらなる注目を浴びました。その飛躍の舞台は、幽斎の甥・英甫永雄が住持を務める建仁寺です。兵火で焼けたこの寺の復興事業で、数々の障壁画を手がけたのです。
寺の「顔」ともいうべき建物、大方丈の障壁画も任され、52面もの水墨画を描きました。友松67歳のことです。
建仁寺の障壁画に取り組むうち、狩野派の影響から徐々に脱して、独自の画風を完成させました。
その極致こそ、世に名高い「雲龍図」です。巨大な画面に2頭の龍がうごめくダイナミックな構図。背景の黒雲がすさまじい墨気を発散させ、凄味のある竜の姿には、戦国の世を生き抜いた絵師の生きざまさえ感じられるようです。
友松の作品の宝庫となった建仁寺は、いつしか「友松寺」とも呼ばれるようになりました。
今に残る作品の多くは晩年に描かれたもので、友松には体力の衰えなど無縁であったのかもしれません。
建仁寺の襖絵で見せた圧倒的な重厚感や気迫は徐々に薄れ、気負いのない線描や明るく軽妙洒脱な表現へと変貌していきます。
桃山絵画の華というべきゴージャスな金碧画も手がけました。金碧画とは、画面に金箔を貼った上に絵を描いたもので、若かりし頃、狩野派門下でその技法をマスターしたのかもしれません。
友松73歳の作「浜松図屏風」の注文主は、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王でした。親王の邸宅にふさわしい、金箔と緑、青の対比が鮮やかな、優美なやまと絵屏風。智仁親王は幽斎から文学を学んでいたため、この縁がつながったようです。
友松の評判は、ほどなく後陽成天皇の耳にも届いたのでしょう。やはり幽斎を文学の師と仰いでいた公家・中院通勝の推薦により、友松が琵琶に絵を描き、天皇を喜ばせたと伝わります。
後陽成天皇や智仁親王は、友松が描いた押絵も愛蔵しました。押絵とは、紙に描いた絵を屏風の一扇ごとに貼ったものです。
天皇や宮家、寺院、武家、そして富裕町人までもが求めた友松の押絵は、数多く今に伝わっています。賛がしたためられたものも多く、その筆者は後陽成天皇から大寺院の高僧、朝鮮の儒学者や外交使節までと、錚々たる顔ぶれです。
なぜ、それほどの人気を得たのか? その理由は、友松が自ら和歌を詠み、茶もたしなむ教養人であり、当代随一の文化人や高貴な人々と美意識を共有していたためといわれます。彼らとの交流を通してさらに教養を深め、厚い信頼を得たのです。
その結実といえるのが、最晩年の傑作「月下渓流図屏風」です。朧月の淡い光があたりを照らす景色は、このうえなく詩情豊かです。
友松は1615年6月、83歳の長寿を全うしました。奇しくも大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した直後、まさに時代の変わり目でした。戦乱の世を生き、多くの文化人に愛され、流派を作らずに孤高を貫いたその人生はどこまでも魅力的です。
友松のことをもっと知りたいかたは、ぜひ画集を手に取ってみてください。美術ファンの間で語り継がれる海北友松展の図録(京都国立博物館、2017年)は特にお薦めです。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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