国宝「松林図屏風」(東京国立博物館所蔵)をご存じでしょうか。靄に包まれる静かな松林を描いた、日本で最も人気の水墨画のひとつです。今回はその作者、長谷川等伯をご紹介します。
等伯は1539年、能登国七尾(現・石川県七尾市)に武士の子として生まれるも、幼くして染物屋を営む長谷川家の養子になったと伝わります。この義父から絵の手ほどきを受けたともいわれ、当初は長谷川信春と名乗り、信仰する日蓮宗の仏画を描く絵仏師として活躍したようです。今も能登には20代後半以降の作品が多く伝わり、生家の菩提寺・本延寺には、信春が色を塗った日蓮聖人の木像が祀られています。
信春は数え33歳の時、養父母が相次いで世を去ったのを機に、3歳の息子・久蔵を連れて京都に出ました。そして、本延寺の本山・本法寺で、異例の大抜擢を受けます。本法寺を率いた日堯上人の頂相、つまり生前の姿を描く重要な仕事を任されたのです。
以降、等伯は、仏画や頂相のみならず、武田信玄など武士の肖像画や禅宗の祖師像、花鳥画など、作品の幅を広げていきました。
やがて、本法寺の日通上人の出身地であった大坂・堺の文化人と交流するようになり、かの千利休と出会います。茶の湯文化や「侘び」の美意識に触れ、やがて京都を代表する禅寺のひとつ、大徳寺に出入りするようになりました。千利休が大徳寺の三門を建て替えた際には、51歳の等伯が天井画や柱絵を描いています。
等伯は大徳寺で、その後の画業を一変させる名画と出会いました。中国・13世紀後半の禅僧画家・牧谿が描いた水墨画の傑作「観音猿鶴図」です。等伯は猿のポーズやふわふわの毛並みなどに学び、自らの作品「竹林猿猴図」を描きました。とはいえ、絵の根底に置いたテーマは異なりました。牧谿は猿を通して自然界の本質を捉えようとしましたが、等伯は猿の親子の温かな愛情を描き出そうとしたのです。
その後も等伯は、動物の“夫婦愛”や“家族愛”を数多くの作品に描きました。そうした豊かな感情表現の延長線上に誕生したのが、代表作「松林図屏風」といわれます。
遠くに雪山を臨み、松林が靄に包まれる神秘的な情景。大きく塗り残された余白が靄を表し、松の木は粗く素早い筆遣いで、繊細かつ大胆に描かれています。
等伯の芸術観を日通上人が記した本『等伯画説』によれば、等伯は「静かなる絵」を理想としていたとされ、この絵はまさにその具現化といえるでしょう。
日本を代表する水墨画ながら、実は、いつどんな目的で制作されたのかわかっていません。
また、紙を継いだ箇所や描かれた地面に左右でずれがあるため、本来は下絵か襖絵として描かれ、のちに何らかの理由で屏風に仕立てることとなり、絵の上下左右を切って構図を整えたとも考えられています。
ところで、等伯の1歳年下に、狩野派の御曹司、狩野永徳がいました。織田信長、豊臣秀吉に取り立てられ、ひとつのモチーフを巨大に描く「大画様式」を確立した、画壇の王者です。
等伯も永徳の巨木表現に影響を受けるとともに、千利休とタッグを組んで狩野派を非難したともいわれ、画壇の下克上を狙ったようです。1590年には、御所の仕事の一部を狩野派から奪おうと試みるも、永徳の抗議によって失敗。しかしその翌月、永徳が48歳で急逝しました。
永徳の死を受けて狩野派内部が混乱するなか、秀吉は、亡くなった幼子・鶴松の菩提を弔うため、祥雲寺を建立し、その障壁画制作を狩野派ではなく、等伯率いる長谷川派に命じました。等伯は名誉あるこの大仕事にさぞ喜んだことでしょう。
実はその半年ほど前、等伯の恩人・千利休が、秀吉の怒りを買って切腹を命じられ、無念の最期を遂げていました。「太閤秀吉が満足する障壁画を、鶴松の三回忌法要までの約2年間で描き上げなくては……」 強いプレッシャーと闘いながら、長谷川一門を率いて制作に打ち込んだのです。
そして、等伯が55歳を迎えた1593年、ついに完成。その一枚「楓図」は、金箔の大画面に巨大な楓の木が描かれ、紅葉と根元に生い茂る草花が彩りを添えています。優しく叙情的な草花の描写には、豪快さを売りにした永徳を超えようとした、等伯の強い意志が感じられます。
そんな折、等伯が期待をかけていた息子・久蔵が急逝しました。一説には、その才能に危機感を抱いた狩野派に毒殺されたともいわれ、等伯の悲しみは想像を絶します。
かの名作「松林図」はもしかしたら、その苦しい胸のうちを絵筆に託して生まれたのかもしれません。
それから5年後、秀吉が逝去。大きな後ろ盾を失った等伯は大胆な戦略に打って出ました。縦8メートル近い巨大な「仏涅槃図」を描き、宮中に持参して披露したのです。
しかも、その絵に「自雪舟(雪舟より)五代」、つまり、「自分は雪舟から数えて5代目の画家である」と記しました。室町時代の水墨画の大家・雪舟の看板を掲げて、その作風に学び、絵師としての生き残りを図ったのです。このPR作戦は成功し、大寺院の仕事が次々と舞い込みました。
さらに等伯は、狩野派にはない新しい絵のテーマを作り出し、一門を挙げて量産します。なかでも柳と橋と水車を描く「柳橋水車図」の画題は京都で大流行しました。
一方、時代は大きなうねりを迎えていました。豊臣家が力を失い、1603年、徳川家康が江戸幕府を開いたのです。
60代後半となった等伯は、絵師として非常に名誉ある「法橋」の位を授かり、その9か月後にはさらに上位の「法眼」となりました。以降の作品には「自雪舟五代長谷川法眼等伯」と誇らしげに記しています。
こうして画壇の頂点を極めた等伯。しかし、その数年後、家康の招きで江戸に向かう途中、病に倒れ、到着後に亡くなったといわれます。享年72。戦乱打ち続く時代の絵師でありながら、多くの作品が寺院に納められたため、幸運にも80点以上の作品が今に伝わっています。機会があれば、ゆかりの寺々を訪ねてみたいですね。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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