江戸時代の天才絵師、伊藤若冲をご存じでしょうか?
2000年に京都で若冲展が開催されて以来、美術ファンの間で若冲フィーバーが起き、16年に東京で開催された若冲展には、31日間の会期中に44万人以上が詰めかけました。
若冲が生まれたのは江戸時代中期、1716年です。生家は京の台所、錦高倉青物市場にあった青物問屋「枡屋」。八百屋などに売り場を貸して場所代を取る裕福な問屋でした。
長男だった若冲は、23歳のときに父を亡くして家業を継ぎます。
ストレスも多く、ある時、うんざりして京都の山奥にこもり、3000人もの八百屋が迷惑したという言い伝えがあるほど。17年間務めたのち、40歳で弟に家督を譲りました。リタイアして画業に専念したのです。
江戸当時、絵師を志す者は、狩野派の絵師のもとに入門し、絵手本の模写から始めるのが定番コースでした。若冲もまずは狩野派の画法を究め、続いて中国の宋・元時代の絵画を数多く模写したと伝わります。
その後、模写から離れ、今度は自分の目で動植物を観察して描こうと、庭に数十羽の鶏を飼ってスケッチしたということです。
鶏は、若冲の代名詞ともいえる画題です。単なる見た目の再現ではなく、誇張した羽毛や色合い、迫力あるポーズなどで、その生命力を本質から捉えました。
若冲はまた、中国・清時代の画家・沈南蘋が来日して伝えた華麗で緻密な花鳥画や、琳派の卓越したデザイン性、曽我蕭白の奇怪な表現など、同時代のさまざまな画風に学びました。
若冲の代表作といえば、43歳頃から10年ほどで制作した「動植綵絵」です。30幅におよぶ花鳥画の連作で、細密極まる筆致で画面が埋め尽くされています。完成後、「釈迦三尊像」3幅とともに、京都の相国寺に寄進しました。亡き父の供養のためだったともいわれます。
江戸中期は、料亭や社寺などを会場に展覧会が開かれるようになった時代でした。人気絵師・若冲の「動植綵絵」を見たいと、皇族や高僧が相国寺を訪れたといいます。
のちに相国寺を率いた禅僧、大典は、若冲より3歳年下で、ふたりは親友でした。若冲は禅宗に傾倒し、やがて、髪を剃って、在家で修行する居士となります。「若冲」という名は、大典が、古代中国の思想家・老子の書からとったとも考えられています。
若冲の信心深さを物語るこんな話があります。ある時、雀が売られているのを見て、焼き鳥にされてはかわいそうだと、数十羽を買い取って家の庭に放したのだとか。食事でも戒律を守り、好物は素麺だったそう。お中元に素麺が届いたときには、親友の大典に「あげないよ」と言ったという、お茶目なエピソードも知られます。
「動植綵絵」は、絹の布に膠絵具で描かれ、うごめくような細かい描写や渦を巻く構図など、エネルギーに満ち溢れています。とはいえ、勢いに任せて筆を動かしたわけではなく、若冲は入念な計算に基づき、輪郭線を引かずに細部まで完璧に塗り分けました。
色合いは複雑で、厚みや深みを感じさせます。その秘密は、東洋の伝統技法で、絵の裏側にも色を塗る「裏彩色」です。
例えば、貝殻を細かくした白い胡粉を使った鳳凰の絵では、表に胡粉で白い羽毛を描いたあと、裏側に胡粉と黄土色を塗っています。すると、裏に塗った色が表から透けて見え、羽毛に厚みや質感が出るとともに、白い羽の隙間が金色に輝いて見えるのです。色彩と視覚のマジックですね。
若冲といえば「桝目描き」による、モザイクのような屏風絵も有名です。画面を小さな正方形に区切って、一つ一つを薄い色で塗り、枡目のなかにさらに小さな正方形を描いて濃い色を塗ったもので、卓越したセンスと綿密な計算、驚異的な集中力が融合した唯一無二の世界です。
若冲は水墨画にも優れ、滲みやすい和紙を使った墨の濃淡や力強い筆勢が見るものを圧倒します。
ユーモラスな画題が多く、釈迦が入滅する場面のパロディー「果蔬涅槃図」では、弟子や動物たちをさまざまな野菜や果物に、釈迦を大根に置き換えています。家業の繁栄を願って描いたのかもしれません。
若冲お得意の水墨技法といえば「筋目描き」です。花を描くとき、花びらを1枚ずつ、間をあけずに描くと、墨よりも先に水が紙に染み込むため、花びら同士の間に自然に隙間、つまり筋目ができます。この技法を使って、菊の花や竜のうろこなどを細かくユニークに表現しました。
版画作品にも斬新な美意識が光ります。好んで用いたのは、中国伝来の「拓版画」という技法。下絵を版木に写したあと、余白を彫るのではなく、図柄の部分を彫ることで、白黒が反転したネガフィルムのような版画になります。
その代表作「乗興舟」は、親友・大典と船旅をした思い出の風景を描いたもので、漆黒の背景に川沿いの景色が幻想的に浮かび上がります。
若冲は引退後も錦市場界隈に暮らし、弟子を抱えて絵を描く傍ら、町年寄を務めて地元に貢献しました。しかし、数え73歳の時、平和な暮らしが突如、終わりを迎えます。天明の大火で屋敷も相国寺も焼け、そのうえ大病を経験したのです。
その後しばらくして、伏見稲荷にほど近い、石峯寺の門前に居を構えました。絵一枚を米一斗分のお金と交換する生活を送ったといいます。
石峯寺の境内には今も、若冲がデザインしたユーモラスな五百羅漢の石仏が400点以上残っています。絵を売ったお金で石工に像を刻ませ、ときには自ら彫ったとか。禅宗に帰依した若冲は独り身でしたが、夫を亡くした妹とその子供とともに暮らし、85歳の天寿を全うするまで絵筆を離しませんでした。
若冲は「動植綵絵」の制作中、「自分の絵の価値を理解してくれる人が現れるまで1000年待つ」と語ったとか。その画業は、美術研究史上、長らく見過ごされてきましたが、300年後の今では世界にファンがいます。
最後に、若冲フリークなら一度は訪ねたい、おすすめスポットを三つご紹介します。まずは、若冲の作品を多く所蔵する相国寺、そして、店々のシャッターに若冲の作品がプリントされている錦市場、最後は五百羅漢の石仏が並ぶ石峯寺です。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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