2021.7.14
狩野永徳筆「松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風」
「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!
今回お話をうかがったのは、福岡県太宰府市にある九州国立博物館(九博)の畑靖紀・主任研究員です。紹介してくださるのは、狩野永徳の「松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風」(九州国立博物館蔵)。日本絵画史上最大の絵師集団・狩野派を率いた天才・永徳が手がけた水墨画の名作を紐解き、中国絵画と室町時代の狩野派から受け継いだ美の系譜を解説していただきました。
―「松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風」の見どころは?
実物を見て、まず感じていただきたいのは、絵の大きさです。人の身長ほどの高さがあり、描かれた木の太さも大人と同じくらいです。
中国に生息する叭々鳥と松、そして、柳と鷺は、日本では、牧谿(13世紀の宋末・元初の禅僧画家)が描いたモチーフとして有名です。永徳は、こうした水墨画の花鳥図を描くとき、牧谿の絵を参照していたのです。
牧谿ら中国画家が描いた花鳥図の多くは掛け軸ですが、永徳は、それを大画面に拡大して描き、部屋を埋め尽くすような、いわば、空間芸術を作り上げました。手に取れる掛け軸と違い、襖絵や屏風絵は自分の体が包みこまれるような感じがします。特にこの絵の場合、描写が大づかみなので、絵が放つオーラや気分のようなものを受け止めやすいと思います。
襖や屏風などの大画面に、松や獅子などのモチーフを大きく描く「大画様式」といえば、桃山時代のイメージがあると思いますが、実は、中国の有名な絵をもとにして、襖などに大きく描いた作品は、室町時代からありました。狩野派だけでなく、能阿弥や相阿弥、画僧・周文も制作していたのです。その大半が「応仁の乱」(1467~77年)で消失してしまったのですが――。なかでも、永徳の祖父・元信は、牧谿の花鳥図などに学び、構図などをわかりやすく整理しました。非常に明快でシンプルな定型を確立したのです。
永徳はそれを受け継ぎ、桃山時代に数多くの大きな城郭建築が造られていくなかで、これをさらに押し広げて迫力を加え、広い空間を絵画で支配する様式を作り上げました。そして、その始まりにあたる、永徳の初期作品の一つが、この「松に叭々鳥・柳に白鷺図屏風」なのです。
【狩野永徳(かのう・えいとく)】天文12年(1543年)、山城国(現在の京都府中南部)生まれ。室町時代後期~安土桃山時代の画家。祖父・元信、父・松栄の期待を一身に受け、早くから画才を発揮。織田信長に認められ、一門を率いて安土城の障壁画を制作。のち、豊臣秀吉に重用され、大坂城や聚楽第などの障壁画を手がける。豪壮華麗な桃山様式を確立し、狩野派の黄金期をもたらした。多くの作品は建築とともに失われた。国宝「花鳥図襖・琴棋書画図襖」(京都・大徳寺聚光院)、国宝「上杉本 洛中洛外図屏風」(米沢市上杉博物館)、「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館)など。天正18年(1590年)、48歳没。
―永徳は、牧谿の作品やその模写を見る機会があったのでしょうか?
その機会はあったと思います。東山御物という言葉がありますが、これは正確に言うと、「東山殿、すなわち、室町幕府第8代将軍・足利義政が、かつて持っていたコレクション」という意味です。「応仁の乱」のあと、権力が弱まった室町幕府は、コレクションを有力な大名や文化人に下賜することで、いろいろな見返りを得ようとしました。もしかしたら、永徳も各地の大名や茶人などの手に渡った東山御物のなかにあった牧谿の絵を見る機会があったかもしれません。
永徳の曽祖父・正信は、義政の御用絵師で、祖父・元信も将軍家の仕事をたくさんしましたから、おのずと東山御物についての知識が身につき、永徳も模写などを見ていた可能性もあります。「祖父や父は、かつて将軍家があの行事の場に掛けた、あの中国絵画を参照して、こんな屏風を作った。では自分はどうしようか」などと考えて制作していたかもしれません。
―畑さんは大学時代、永徳が初期に手がけた水墨画である、国宝「花鳥図襖・琴棋書画図襖」(京都・大徳寺聚光院)の研究をされたとうかがいました。どのような経緯だったのでしょうか?
もともとは心理学を学びたいと思って東北大学文学部に入ったのですが、入学後、オーケストラのサークルに熱中してしまって(笑)。そのせいで、人気だった心理学研究室には入れず、残った選択肢のなかから、東洋・日本美術史研究室を選んだのです。
私の実家は、秋田県の横手という田舎町にあり、曽祖父や祖父は骨董集めが趣味で、日本美術に親しみはあったのですが、私は美術史の知識はまったくなくて。ちなみに、実家には、近くの角館出身の日本画家・平福百穂の襖絵もありました。百穂は、親戚のお葬式で横手に来て、私の実家の目の前の旅館に滞在したことがあったようです。
そんなわけで美術史研究室に入ったのですが、入って早々、「来月、毎年恒例の見学旅行で京都に行くから」と言われて。「まずはバイトして旅費をためること。それから、各自担当を決めて、現地で見学する作品の説明をすること」と伝えられて。そのときに私が選んだのが、大徳寺聚光院にある永徳の襖絵だったのです。図版で見たときに、木の幹が太くて存在感があり、枝ぶりがはつらつとしていて、すごくかっこいいなと思った記憶があります。
それからは先行研究を読んで発表用の原稿を作り、助手や大学院生の熱血指導を受けながら手直しして。当時、聚光院には複製品ではなく、原画の襖がはまっていました。本当なら、実物を見て感激するはずなのですが、そのときは、発表のプレッシャーのほうが大きかったですね。
大学院に進んでから、室町時代の雪舟などの水墨画や唐物の研究を始めたのですが、そのきっかけもやはり、聚光院の襖絵でした。というのもこの絵には、永徳のなかの中世的な要素と近世的な要素の両方が表れているのです。
のちに迫力に満ちた桃山時代の絵画様式を作り上げる永徳のデビュー期の作品ですから、近世の先駆けとして語られることが多いのですが、それと同時に、祖父や父が室町時代に作り上げた様式のひとつの帰着点ともいえます。古い形式をまとめ上げて、ここからまた新しい展開を見せていったということです。
2020年に東京国立博物館で開かれた「紡ぐプロジェクト」の特別展「桃山―天下人の100年」では、元信の「四季花鳥図屏風」、永徳の「花鳥図襖」(聚光院)、探幽(永徳の孫)の「雪中梅竹遊禽図襖」(名古屋城総合事務所)が並べて展示されていて、室町、桃山、江戸という狩野派における水墨画の花鳥図の流れを分かりやすく紹介していました。3点並べると、構図においても描法においても、永徳が元信などから多くのものを受け継ぎ、それが次の世代へとつながっていったことがよく理解できます。
一方で、永徳というと、一般的には、水墨画以上に「唐獅子図屏風」などの鮮やかで、きらびやかな着色画のイメージが強いと思います。そうした表現のルーツは、やまと絵にあります。
永徳の祖父・元信は、やまと絵の絵師集団・土佐派を率いた土佐光信の娘が妻だったともいわれ、土佐派の表現に学んで消化し、「四季花鳥図屏風」(白鶴美術館)という非常に美しい絵を残しています。永徳は、そうした着色画の表現もまた、水墨画と同様、祖父や父から受け継いで花開かせました。
水墨画と着色画を両方手がけるというのは、永徳の時代に始まったことではなく、元信の頃から行われていたのですね。もっぱら水墨で描いた雪舟とは異なり、狩野派は室町時代以来、よく言われるように「和漢を統合」していたのです。
私は、大学時代の京都旅行で永徳の水墨画をなんとなく選んだわけですが、今振り返ると、永徳が受け継いだ室町時代の美意識を感じ取って、惹かれたのかなと思います。
◇ ◇ ◇
畑さんのお話をうかがっていると、中国絵画から日本絵画へ、室町時代から桃山時代へと受け継がれ、折々に新たな表現を生みだしてきた絵画史が、ゆるやかで豊かな川の流れのように感じられました。次回は「文化交流」をモットーに掲げる九博の魅力をたっぷりとお話しいただきます。
【畑靖紀(はた・やすのり)】昭和46年(1971年)、秋田県横手市生まれ。東北大学文学部東洋・日本美術史研究室、同大学院、同助手などを経て、2004年より、九州国立博物館研究員。専門は日本・東洋絵画、特に雪舟および東山御物。展覧会「台北國立故宮博物院―神品至宝―」(2014年)などを企画・担当。著書に「室町水墨画論集」(21年、中央公論美術出版)、「日本美術全集 第9巻 室町時代 水墨画とやまと絵」(共著、14年、小学館)など。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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