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2021.5.18

特別展「聖徳太子と法隆寺」  奈良会場だけに出品される国宝・重要文化財を紹介(前編)

現在、奈良国立博物館で開催中の特別展「聖徳太子と法隆寺」。7月からは、東京国立博物館にも巡回するが、奈良会場でしか展示されない国宝・重要文化財などを紹介する。

国宝 海磯鏡かいききょう
奈良時代 8世紀 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)

直径約47センチの大型の鏡。聖徳太子の没後100年以上を経た天平8年(736年)、太子の命日である2月22日に、光明皇后が法隆寺の「 丈六じょうろく 」仏に奉納したという記録が残る。太子の等身像として信仰された金堂の釈迦三尊像に奉納されたと考えられる。ほぼ同じ大きさのもう1面の鏡と一対で、鏡背に四つの高い山とその間をめぐる波を描き、その中に、船に乗った人物や水鳥などが表されている。

光明皇后は、756年、正倉院宝物として今に伝わる、聖武天皇遺愛の品々を、東大寺大仏に奉納したことで知られる。太子が広めた仏教に帰依した皇后が、太子信仰に加護を求めていたことがわかる品である。

明治11年(1878年)、法隆寺から皇室に献納され、現在は東京国立博物館で所蔵されている。

2面を前期(427日~523日)、後期(525日~620日)で入れ替えて展示する (画像の鏡は前期展示)。


法隆寺は、金堂、五重塔を中心とする西院伽藍さいいんがらん夢殿ゆめどのを中心とする東院とういん伽藍に分かれている。

東院は、聖徳太子が住んだ斑鳩宮いかるがのみやの跡地に立つ。斑鳩宮の荒廃を嘆いた行信僧都ぎょうしんそうずが、聖武天皇と光明皇后の娘、阿倍内親王(後の孝謙天皇)に訴え、天平11年(739年)までに整備された。

夢殿の本尊は太子等身と伝わる救世くせ観音像であり、太子の遺品類も集められた。その際、光明皇后も宝物を奉納している。平安時代になると東院は法隆寺における太子信仰の中心地となった。東院絵殿えでんゆかりの宝物は奈良会場にのみ出品される。

国宝 聖徳太子絵伝
平安時代 延久元年(1069年) 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物) 前期(4月27日~5月23日)展示

法隆寺の東院伽藍、夢殿の後方に絵殿と舎利殿しゃりでんがある。絵殿はその名の通り、聖徳太子の生涯を描いた「聖徳太子絵伝」が飾られていた。縦約1.9メートル、全長約14メートルに及ぶ大作で、摂津国の絵師・はたの致貞ちていが延久元年(1069年)に描いた。太子絵伝として現存最古、最大の名品だ。海磯鏡と同じく、明治時代に皇室に献納された。

今回、奈良会場では一挙に10面すべてが展示される。「太子、うまや前にて誕生」「東にむかって合掌し、南無仏と唱える」「36人の童子の言葉を一度に聞き取る」「黒駒に乗って富士山頂を飛ぶ」など60近いエピソードが描かれる。

このような「聖徳太子絵伝」は僧侶らによる「絵解き」に活用された。絵伝は、太子の功績を、文字の読めない信者にも、わかりやすく伝えることができ、太子信仰は全国へ広まっていくことになった。

絵殿では、コの字形の空間に配置され、おおよそ東面に飛鳥地方、北面に法隆寺を含む斑鳩いかるがの地が表され、西面には四天王寺や難波津から、海を隔てた中国までが描かれる。実際の地理関係、方位が対応しており、建築と一体化して構想されたことに本図の特徴がある。展示は、5月23日までだ。

法隆寺の絵殿

法隆寺の絵殿は、普段は非公開だが、聖徳太子1400年御聖諱ごしょうき関連事業の一環として、9月30日まで、特別開扉されている。現在は江戸時代に制作された聖徳太子絵伝の模本が飾られている。この機会にぜひ訪れたい。

絵殿内陣(画像提供:飛鳥園)

場面解説は「文化財活用センター」のサイトでも見ることができる。

「絵伝」についての紡ぐサイトの記事もあわせて読んでいただきたい。

重要文化財 聖徳太子坐像(伝七歳像)
円快(えんかい)作 平安時代 治暦5年(1069年) 奈良・法隆寺蔵

かつて東院絵殿に安置されていた太子像。髪を角髪みずらに結った少年の姿で、ほうを着けて座す。太子の忌日に行われる聖霊会しょうりょうえで用いられる。今年行われた聖徳太子1400年御聖諱法要においても本尊として西院伽藍に運ばれ、大講堂にまつられた。

聖霊会 の様子は、全日程をリポートした紡ぐのサイト内でまとめている。

像内の墨書銘に、聖徳太子の生誕505年に当たる治暦5年(1069年)に制作されたことが記される。これによって、本像は、現存最古の聖徳太子の彫像であることが知られる。銘文には、制作者の仏師僧円快と前述の「聖徳太子絵伝」を描いた絵師はたの致貞ちていの名も記される。表面には鮮やかな彩色が残る。

国宝 観音菩薩立像(夢違観音)
飛鳥時代 7~8世紀 奈良・法隆寺蔵

この像に祈れば悪夢が吉夢に変わるとの伝承から「夢違ゆめちがい観音」の愛称で親しまれてきた。江戸時代の開帳の記録によれば、もともと絵殿にあったが、その後金堂の厨子ずし内に納められた後、元禄3年(1690年)の開帳にあたり、ふたたび絵殿に安置されたことがわかる。今回、太子絵伝の前に展示され、久々の対面を果たした。

日本の国造りが進んだ飛鳥時代後半、寺の建立や仏像の制作が飛躍的に発展し、若々しく愛らしい仏像に象徴される白鳳文化が花開いた。無垢むくで優しい微笑ほほえみ、しなやかな曲線美を間近でご覧いただきたい。

近日公開する後編に続きます。

(構成 読売新聞デジタルコンテンツ部)

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