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2025.3.26

清浄なる舞 追い続け ― 味方玄「テアトル・ノウ」公演50回

「世阿弥は『老骨に残りし花』を理想に掲げました。老いとともに、精神的な充実と肉体的な衰えのバランスをどう取るか。最終的には生身の人間そのものが表れるのかもしれません」(京都市左京区の京都観世会館稽古舞台で)=大塚直樹撮影

貴族の風雅、狂乱の極まり、厳かな神の姿……。能役者・味方玄の舞は、時にあでやかに、時に清冽せいれつに、人物の感情を表現する。京都を拠点に主役を演じるシテ方として活躍する58歳。世阿弥が「まことの花」と呼んだ円熟期を迎えている。自らを鼓舞する〈実験と鍛錬の場〉としてきた自主公演「テアトル・ノウ」が〔2025年〕5月、50回を迎える。(編集委員 坂成美保)

子ども時代、かれたように夢中になった。小学校の低学年で能楽堂に通い、スケッチブックに見てきた場面を黙々と描いた。お手製の「能面」が今も自宅に残る。段ボールに鬼や女性の顔を描き、目や口に穴を開け、耳にひもを通す。その数は100個を超える。

祖父・諦仙たいせんは十念寺(京都市上京区)の住職だった。幼少期、体が弱かった父・健は健康のために能を習い始め、やがてその魅力に目覚め、高校教師と能役者の二足のわらじで、家族を養った。

幼い頃から、名子方として活躍した(1974年、ウシマド写真工房提供)

父の影響で、子方(子役)として能舞台に立つようになった玄は15歳で、一般家庭の出身者に門戸を広げる京都能楽養成会に入会。20歳から約6年間、人間国宝・片山幽雪ゆうせつ(九世片山九郎右衛門、2015年死去)の内弟子として、住み込みで修業した。

独立後の1996年、「無名の能役者だから、仕掛けのある企画で観客をきつけよう」と考え、「テアトル・ノウ」を始めた。「テアトル」は、劇場のこと、能楽堂を出て現代演劇のホールでも実験演出を試みた。


テアトル・ノウ第1回公演は、十念寺で座敷能「葵上」を上演、書院内では香をたいた(1996年、撮影・渡辺真也)

初回は、十念寺の書院を会場に、灯籠の明かりと刻々と変化する自然光を生かした座敷能を披露。京都府民ホール公演では、本物の桜の枝を舞台に組み、花びらが舞い散る下で「忠度ただのり」を勤めた。建築家との共同制作でホールに橋板を組み、カキツバタの生花を大量に植えて「杜若かきつばた」を演じたことも。

ホール内に本物の桜を運び込んで演じた「忠度」(2005年、撮影・渡辺真也)

ある時、師・幽雪が苦言を呈した。「今の若い人の能は説明的やな」。「あざとい演技をするな」との戒めだった。「奇抜な装置はかえって観客の想像の余地を奪う」と気づき、40歳代以降は能楽堂の簡素な舞台で「内面の工夫、自然な演技」を目指した。

50回の記念公演では、「三輪」を舞う。片山家に伝わる小書き(特殊演出)、「白式神はくしきかみ神楽かぐら」での上演。シテの三輪明神は純白の装束でさかきを手に登場する。

り拍子(足摺り拍子)」と呼ばれる特殊な足の動きが眼目になる。「真の闇から何かが生まれる様子を毛細血管にだんだん血が通っていくように表現できないか」と意欲を燃やす。

幽雪が勤めた舞台が今も記憶に残る。「先生のシテは清浄そのもの。とりわけ足の運びが美しかった」。一度、「先生はどうして真っすぐ歩けるのですか」と尋ねたことがある。「練習をした」とひと言返ってきた。

亡き師・片山幽雪の気配を感じながら初めて勤めた「三輪 白式神神楽」(2015年、撮影・渡辺真也)

2015年に自らが初めて勤めた時は、精進潔斎して身を清めた。「俗なもの、脂ぎったものが出てはならない。真っ白な装束から中年の加齢臭がしないよう、自分を律し、内面と向き合う。幽雪先生がまとわれていた『白いオーラ』を目標にしたい」

◇ みかた・しずか 1966年、観世流能楽師・味方健の長男として京都に生まれる。幼少より父の手ほどきを受け、片山幽雪、十世片山九郎右衛門に師事。96年から「テアトル・ノウ」を主宰する。著書に「能へのいざない」など。京都観世会理事。観世寿夫記念法政大学能楽賞などを受賞。

第50回記念テアトル・ノウ 5月24日、京都観世会館(京都市左京区)。能「三輪」のほか、味方の三女・あずさが面・装束なしで勤める舞囃子まいばやし「高砂」、片山九郎右衛門の謡と笛・太鼓による一調一管「さぎ」、茂山千三郎の狂言「末広かり」。午後1時半開演。☎ 075・213・1774。

(2025年3月26日付 読売新聞夕刊より)

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