国立劇場は、半世紀以上にわたって伝統芸能の継承に大きな役割を果たしてきた。歌舞伎、文楽などへ公演の場を提供するばかりでなく、客層の開拓に様々な試みで成果を上げてきた。新しい国立劇場の完成までの6年余は、伝統芸能の継承と発展を図るために、演者、裏方とも正念場となる。国立劇場を運営する日本芸術文化振興会(芸文振)の長谷川眞理子理事長に、閉場中の方針と伝統芸能の未来について聞いた。
国立劇場は開場以来、上演する歌舞伎公演は〈1〉原典の尊重〈2〉通し上演〈3〉上演が途絶えた作品の復活――を大方針に掲げてきた。長い間、歌舞伎は松竹の努力で興行が続けられてきたが、商業的な成功が難しい作品はやがて上演が途絶えてしまう懸念もあった。松竹と役割分担し、補完しあいながら後世に残す価値があるものを見極めて、上演する――国立劇場は、その使命を半世紀以上、担ってきた。
1966年11、12月の開場記念公演に選ばれたのは歌舞伎三大名作の一つ「菅原伝授手習鑑」の2か月がかりの通し上演だった。11月は菅丞相(菅原道真)は十七代目中村勘三郎が演じ、二代目中村鴈治郎、十三代目片岡仁左衛門ら上方の名優も加わった大顔合わせになった。その後も大きな節目の年には「義経千本桜」「仮名手本)忠臣蔵」と、三大名作の通し上演を行ってきた。
先頃亡くなった二代目市川猿翁(当時・猿之助)が代名詞の「宙乗り」を初めて披露したのは、68年の「義経千本桜・四の切」だった。明治期以降、途絶えていた「けれん」と呼ばれる宙乗りや早替わりの演出は、当時の観客の目に新鮮に映り、すぐに熱狂的に受け入れられた。やがて猿翁は国立劇場の研修生出身者を自ら育成して大役に抜てきし、鶴屋南北の「四天王楓江戸粧」を始め、古劇の復活にも力を注いでいく。
昭和の名優・二代目尾上松緑も埋もれていた「歌舞伎十八番」の復活に挑んだ。82年に上演された「象引」はおおらかで豪快な「荒事」の精神を見事に舞台上で具現化し、観客を江戸時代の芝居小屋にタイムスリップさせた。
近年は2014年の「伊賀越道中双六」が画期的な公演だった。「役者がそろわないとできない」と言われた名場面「岡崎」を含んだ通し上演は、構想から上演までに約10年を要した一大プロジェクト。2年前に亡くなった中村吉右衛門が座頭となって中村歌六、中村雀右衛門らと総力戦で挑み、歌舞伎作品として初めて読売演劇大賞の大賞・最優秀作品賞(第22回)に輝いた。
小劇場は、国立文楽劇場(大阪市)が開場した1984年以前から文楽のホームグラウンドだった。屈指の人気演目「曽根崎心中」では初代吉田玉男の徳兵衛、吉田簑助のお初のゴールデンコンビが今も語りぐさになっている。今年9月の文楽の最終公演でも曽根崎心中が上演された。
芸に命を懸けた人たちが集まり、その熱い思いが染みこんだ初代国立劇場の舞台。同じ地で生まれ変わる二代目の劇場では、どんな名舞台が見られるのだろう。(文化部 森重達裕)
■ 国立劇場とは
1966年7月、特殊法人国立劇場(独立行政法人日本芸術文化振興会の前身)が発足、11月に国立劇場を東京都千代田区隼町に開場した。大劇場(客席数1610)、小劇場(同590)で歌舞伎、文楽をはじめ、舞踊、邦楽、民俗芸能、声明、雅楽等の主催公演を年間300超上演してきた。後に、敷地内に国立演芸場(演芸資料館)、伝統芸能情報館を併設した。
2029年度以降、同敷地内に大劇場、小劇場、演芸場などを含む新しい国立劇場を新築し再開場を予定している。
※舞台写真は国立劇場提供
◇ ◇ ◇
いよいよ〔2023年〕10月で初代の国立劇場が閉場します。老朽化にともなう建て替えに向け、これまで2度、担当する事業者を公募しましたが、まだ決まっていません。今後は計画を十分に検討し、再開場に向けた準備を進めていきたいと思います。
◇はせがわ・まりこ 1952年、東京都生まれ。東京大学大学院理学系研究科で理学博士取得。早稲田大学教授、総合研究大学院大学学長を経て4月から現職。専攻は行動生態学、自然人類学。
閉場中は、各地の劇場で公演を続けます。12月の文楽は東京・北千住のシアター1010(せんじゅ)で、年明けの初春歌舞伎と邦楽は新国立劇場(東京都渋谷区)、2月の文楽は日本青年館ホール(東京都新宿区)で行います。
公演情報を小まめに発信しますので、国立劇場においでいただいている方には引き続き足を運び、ともに伝統芸能の灯を守り続けてくださるようお願いします。
国立劇場では、ほかではできない大がかりな通し狂言の公演などを行ってきました。若い人たちに伝統芸能に触れてもらう「鑑賞教室」や、英語での解説付きの公演も続けます。海外の皆さんにもぜひ一度体感してほしいと思います。技の継承のため「伝承者養成事業」ももちろん続けます。
就任後に、国立劇場の歌舞伎や文楽、舞踊をはじめ、能や狂言などを多く鑑賞するようになり、改めて「総合芸術としてすごいものだ」と感嘆しました。演じる方々の技だけでなく、三味線など楽器の音、太夫さんの声、衣装、大道具小道具、また物語も素晴らしい。ただ、今はその価値が伝わりづらい時代です。改めて伝統芸能の魅力をわかりやすい言葉にして伝えるなど、(伝統芸能に触れたことがない方にも)新しい届け方を工夫できればと思っています。
(2023年10月1日付 読売新聞朝刊より)
0%