東京・東銀座の歌舞伎座で8月30日まで公演中の「八月納涼歌舞伎」。第一部の『
―― 今回の歌舞伎座では『新選組』と『東海道中膝栗毛 弥次喜多流離譚』に出演。『新選組』では主人公・深草丘十郎の「父の敵」、庄内半蔵役、『弥次喜多』ではヒロインのオリビアに恋慕する長崎奉行与力の釜掛之丞役、どちらもちょっとユーモラスな敵役ですね。
亀蔵 私の役は「親の敵」といっても、前半で死んでしまう。もっと大きな「敵役」としては、(坂東弥十郎さんが演じる)芹沢鴨がいます。
『新選組』の原作は手塚治虫先生の漫画ですが、先生の漫画にはシリアスな場面にちょっとコメディータッチの場面を交えることがありますよね。そんなことをイメージしながら、あまり「やり過ぎない」、古典歌舞伎でいえば「端敵」のつもりで演じています。
『膝栗毛』の方は(松本幸四郎さんが演じる)弥次郎兵衛と(市川猿之助さんの演じる)喜多八が割とぐにゃぐにゃした芝居なので、そことは一緒にならないようにしています。私までぐにゃぐにゃすると、「喜劇」じゃなくて「俳優祭」みたいになってしまいますからね。悪ふざけはせず、比較的かっちりと芝居を進めるようにしています。……まあ、
―― 今回は、ホンモノの水を使っての滝の中での立ち回りがありますね。コロナ禍でいろいろこれまで演出も制限されていましたが、「ようやくこれが出来るぐらいまで回復してきたか」という感慨もありましたけど……。
亀蔵 60歳過ぎて水の中に毎日入ることになるとは、と思いましたけど(笑)
まあ、でも幸四郎さんも猿之助さんもドリフターズが好きですよね。2016年以来、『弥次喜多』のシリーズには全部出演させて頂いていますけど、改めてそう思います。そうそう。今回は、いつも「釜桐座衛門」として「大敵」役だった市川中車さんがドラマの「六本木クラス」に出演中で、『膝栗毛』には出られなかったんですよ。
――お芝居の中で、そういう説明もされていましたね。
片岡亀蔵さんは、1961年東京都生まれ。父は「片市さん」の愛称で親しまれた名脇役・五世片岡市蔵さんで、実兄も名脇役として知られる六代目片岡市蔵さんだ。面長の「役者顔」を生かして古怪な雰囲気の敵役を演じることが多い「時代物」に加え、「世話物」では
鯔背 な江戸っ子の味をうまく出す。古典歌舞伎では欠かせない存在なのである。さらに新作歌舞伎でも、『野田版
研辰 の討たれ』のからくり人形、『狐狸狐狸 ばなし』の牛娘など、新作歌舞伎では数々の「怪演」を発揮して、こちらも舞台になくてはならない存在になっている。さらに今年6、7月にシアターコクーンなどで上演された『パンドラの鐘』に出演するなど、現代演劇でも活躍。シリアスな芝居からコメディータッチのものまで、「どんな舞台にでもひとりいてくれれば助かる」と共演する役者・演出家が声をそろえる芸達者なのである。
――『八月納涼歌舞伎』 は昔から若手の花形が趣向を凝らした芝居を上演するのが通例。今回も例外ではありませんね。『研辰の討たれ』にしても『法界坊』にしても、かつては(十八世中村)勘三郎さんとの舞台が多かったわけですが、勘三郎さん亡き後は後輩との舞台が多くなっています。何か違いはあるのでしょうか。
亀蔵 まあ、でも、あくまでも「芝居」の中での工夫ですから。「ここでお客さんを笑わせてやろう」とか「どうやったら受けるか」とかは考えていませんね。「納涼歌舞伎」は「古典を拝見」という雰囲気ではありませんから、「より自由に」という気持ちはありますが。
――例えば、『狐狸狐狸ばなし』の「牛娘」の役などでは、前半ベロベロと二枚目の法印をなめまわす「怪演」がありますが、最後の最後ではしっとりとマジメなセリフを言うことができる。どんな「役作り」で考えているわけですか?
亀蔵 法印の体をなめるのは、「愛情表現」なんですね。表現は大げさにしていますが、単純に「笑わせる」「こうやったら笑うだろう」ではやっていない。それをやると、後半のセリフが生きてこないですから。あくまでも「芝居本位」なわけです。
私がそういう芝居をやったとき、「そこまでやるなら、オレだって」と「板の上の戦い」を受けてくれるのが勘三郎さんでしたね。野球で言えばキャッチボールでこちらが160キロのストレートを投げたらそれ以上の球を返してくる。その結果、笑いが生まれるという感じでしたね。
――幸四郎さん、猿之助さんとの芝居もそういう感じですか。
亀蔵 おふたりは勘三郎さんよりも「ドリフ的」ですから、ちょっと笑いに対するアプローチが違う。でも、まだまだ今後も変わってくると思います。森繁(久弥)さんと(三木)のり平さんのコンビのように、特に何か仕掛けもせず、せりふの間とちょっとした表情で笑わせることができれば一番いい、と私は思っています。
――新作歌舞伎と古典歌舞伎、どちらも得意とされていますが、何か違いはありますか。
亀蔵 古典歌舞伎はお客さまも作品を知っていて、そのうえでそれぞれの役柄をしっかりどう見せるかだから、きちんきちんとその役を決まった形で演じなければいけない。
新作は逆に、どれだけお客さんの予想を裏切るか、はみ出した演技ができるか、が重要になる時もある。新作をやり続けていると古典がやりたくなるし、古典ばかりだと逆に新作がやりたくなったりもします。現代演劇も含めて、私の場合、いろいろな機会が与えてもらえているので、そこはありがたいと思っています。
――「予想を裏切る」「はみ出した」演技のためには、いろいろな引き出しが必要になってくると思うのですが、その辺りはどのようにお感じですか。
亀蔵 「これを芝居に役立てよう」という意識でいるわけではないんですけど……。まあ、子供の頃から好奇心旺盛でいろいろなものは見てきましたね。今でもヒマがあれば、寄席に行ったり美術館に行ったりして、「外の世界」に触れようとは思っています。
昔は「外の世界」にはいろいろと変わった人も多かった。芸人さんだって「その世界でなければ生きられない」ような人が多かった。そこには、いい意味でも悪い意味でも「すごい人たち」がいたんです。私の芝居が若い人たちと違うところがあるとすれば、そういう人たちがいる世界と「触れてきた」経験が生きているんだと思います。
――さきほど、コロナ禍が続く中で「本水の立ち回り」ができるようにまでにはなってきた、という話がありましたが、「八月納涼歌舞伎」の第一部も一時公演中止、配役を替えて再開、という事態になりました。まだまだコロナとの戦いは続きそうですね。
亀蔵 こればっかりはねえ……。私たちがルールを決めるわけにもいかないものですからねえ。歯がゆい気持ちはありますが、そういう緊急時に対応して、どんな役でもすぐに演じることができるようにするためにも、われわれ歌舞伎役者は長い年月修業をしてきて、さっき話したような様々な経験を糧にしているわけですから。とにかく私としては自分ができることをやり続けるしかないです。
歌舞伎座・八月納涼歌舞伎のサイトはこちら https://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/play/773
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