ドアが閉ざされたままの数か月を経て、伝統芸能の公演が戻ってきた。舞台に立つ役者の芸だけでなく、大道具や小道具、衣装に床山など、いわゆる裏方の技もまた、公演があってこそ受け継がれるもの。再びその伝承に向け動き出した東京・国立劇場を訪ね、担い手らの思いをお届けする。
国立劇場の地下に、大道具の製作・保管スペースが広がっている。そこに常駐して歌舞伎・文楽の大道具の製作・作画を担うのが職人集団「金井大道具」だ。木板で巨大セットを形作る製作スタッフ、そこに紙を貼っていく「経師」のスタッフ、その紙に精細な絵を描いて仕上げる美術スタッフと、総勢20人ほどが働いている。
製作キャリア30年の奥泉大輔さんは今年4月、棟梁(リーダー)になった。だが、コロナ禍で4、5月の仕事は完全にストップし、最初の仕事は職場の感染防止対策を図ることだった。「このまま幕が開かなければ伝統芸能が途絶えてしまう。そんな不安をずっと抱えていました」。ようやく8月からの劇場再開が決まり、徐々に作業場も活気を取り戻している。
「いつも爪の間に絵の具が入っていましたが、休業中、初めて手がきれいになりました」と語るのは3年前、美術グループのリーダーになった馬場ひろみさん。美術の作業は6月から少しずつ再開し、色とりどりに染まった手を見て「戻ってきた」と実感したという。
美大で日本画を専攻し、入社14年目。「初めて手がけた美術を客席から見た時、近くにいた女性が『わあ、きれいね』と声を漏らした、その言葉がうれしくて忘れられません」
コンピューターグラフィックス(CG)で精細な絵が描ける時代になっても、歌舞伎・文楽の大道具は手描きだ。「よく『絵心』『芝居心』と言いますが、機械には出せない『心』が手描きならでは。『ゆらぎ』や『ゆがみ』が、味わいになると信じて描いています」
休業期間中も、若手の技術を底上げしようとスタッフに呼びかけて勉強会も開いた。「いつも時間に追われるように作業をしていたから、今回の休業は立ち止まる機会になった」と言う。
「自分が関わったもので、誰かが喜んでくれると思いながら仕事をしてきた。幕が開いたら、そんな初心に帰れるように思います」
歌舞伎や文楽、日本舞踊などの公演で使われる大道具は、国立劇場では、「奈落」と呼ばれる地下で作られている。まずは、「道具帳」と呼ばれ50分の1スケールのイメージ図をもとに、製作チームのスタッフらが材木を切り、パネルを組み上げていく。
パネルには、水のりを使って薄い紙を貼り付ける。しわが寄らないよう、刷毛を一気に動かす。見えないところにも、技が生きている。
背景となるパネルだけではなく、立体物も手がける。地下には、大きなやぐらや発泡スチロールの灯籠、木でできた船などが所狭しと並べられていた。公演のときには、船は大道具さんが中に入って動かしているそうだ。
8月15~19日の「稚魚の会・歌舞伎会合同公演」で、実に7か月ぶりに歌舞伎の幕が開いた国立劇場。同劇場で研鑽を積んだ歌舞伎研修の修了生が中心となった晴れ舞台だ。
今年は歌舞伎俳優や歌舞伎の演奏家などを育成する同劇場の「養成事業」が始まって50年の節目にあたる。コロナ禍で研修も一時、中断していたが、6月から徐々に再始動。7月、劇場2階の稽古場では、歌舞伎俳優研修の主任講師、中村時蔵さんの指導で研修2年目に入った3人が「絵本太功記 十段目」の各役を演じ分ける稽古に臨んでいた。
浴衣姿にフェースガードも付けた3人は、時蔵さんの手取り足取りの指導に熱心に耳を傾けつつ、義太夫の演奏に合わせた動きや独特の抑揚があるセリフ回しを何度も繰り返していた。
(2020年8月2日付読売新聞朝刊から掲載)
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