2021.7.16

【歌舞伎あれこれ】江戸のお金は難しい

東京・東銀座の歌舞伎座で7月に上演されている『御存ごぞんじ鈴ヶ森すずがもり』。舞台下手に美少年・白井権八が駕籠かごで到着し、料金を支払う際に雲助連中とこんなやりとりをする。

権八「夜中やちゅうと申し心をつけてつかわすぞ」
雲助「こりゃ二朱でございますか」
権八「六百文の極めなれど、心をつけてつかわすのじゃ」

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ここで「あれ?」と思うのは、少しばかり江戸をお勉強しているヒトだろう。教科書的に言えば、1両=4分、1分=4朱で、1分=1000文。つまり、このまま換算すると、権八は「600文と決めていたけど、チップを含めて500文あげるよ」と言っていることになるからだ。

この芝居、雲助は「心をつけてたった二朱かえ」と絡みだし、大立ち回りへと発展するのだが、大原則の言葉尻を取れば、「権八がケチで雲助が正しい」ということになってしまいかねない。しかしまあ、それは大きな間違いなのである。

江戸のフクザツな貨幣制度

「江戸時代、金と銭は変動相場制だったんですよ」というのは、早稲田大学演劇博物館の児玉竜一副館長だ。教科書的な相場は1分=1000文なのだが、江戸後期から末期にかけての相場は1分=約1600文。つまり「二朱つかわす」とは「800文あげる」ということになる。心付けは200文。決して小さいチップではない。

「(現行の『鈴ヶ森』のもとになっている)鶴屋南北作『浮世柄うきよづか比翼ひよくの稲妻いなづま』の初演に近い時代の台本では、『五百文の極めなれど』となっている。江戸も後半に入ると、もう1分=1000文ではない、が常識だったんでしょう」

江戸時代の歌舞伎は、庶民の生活に密着した芸能だった。時代の実情に併せて、台詞の細かな部分は変わっていったのである。

そもそも江戸時代の金勘定は複雑だ。

富山県小矢部市埴生の観光施設の工事現場で発見された江戸時代の小判や二分金、明治初期の金貨や銀貨など(2002年撮影)

「『東国の金遣い、西国の銀遣い』という言葉があるように、江戸では両・分・朱という金を中心にした貨幣制度『金遣い』が普通、上方では貫、匁の『銀遣い』が普通でした。それに加えて、庶民レベルで主に流通していたのは1文、2文の『銭』だったので、三つの貨幣制度が共存していたことになります」と児玉副館長。金、銀、銭はそれぞれ変動相場。時々の相場に従って、1両が何文、何匁かというのは揺れ動いていた。その結果、冒頭のようなせりふが生まれることになった。

絶妙なリアリティー

ちなみに1両は現在で言えば、10万円くらい。銀の交換レートは大体1両=60匁で、銀1貫(3・75㎏)は1000匁だ。近松門左衛門の名作『女殺おんなごろし油地獄あぶらのじごく』で、主人公の与兵衛が兄嫁を殺してしまう際に抱えていた借金が200匁。証文の期限を過ぎれば金額が5倍になるという約束だったから、一晩で借金が約33万円から170万円近くになる。遊び人の若者が焦るには、なかなか絶妙な金額設定だなあ、と思ったものである。

1両=10万円の換算に従えば、権八が駕籠屋に払おうとしていた2朱は約1万2500円。品川宿の前の宿場、川崎宿あたりから乗ったとすれば、決して安い金額ではない。駕籠を下りる際、権八は「これが観音前と申す処か」と聞いているが、古地図を見ると東海道沿い、品川宿の品川寺ほんせんじ前あたりが「観音前」と言われていたようだ。現在も品川寺は昔と同じ、青物横丁の商店街にある。鈴ヶ森で下ろされたとなると、目的地からだいぶ手前で下ろされたことになる。

「つまり、雲助たちは、最初から料金もふっかけるつもり。行き先もごまかしている、ということになりますね。初めて江戸に来た権八を『田舎育ちのいいカモ』と思って、身ぐるみ剥ごうと思っていたのでしょうね」と児玉副館長。雲助さんたちが誤算だったのは、弱々しい美少年に見えた権八が凄腕の剣士だったということだろう。

金額といい、舞台の設定といい、調べてみるとなんだか妙にリアリティーがある。大事なことだから2度言うが、江戸の歌舞伎は庶民の暮らしに密着した芸能。細かい設定が実に絶妙なのである。

         (事業局専門委員 田中聡)

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