
雪国の人々は厳しい寒さの中で暮らしながら、時代を超えて様々な文化や技術を育み、後世に継承してきた。秋田県大仙市の真冬の風物詩「刈和野の大綱引き」は大勢の人たちの熱気に包まれる。岐阜県飛騨地方の「飛騨染」は冬の寒さにさらして独特の色を発し、青森県津軽地方の「こぎん刺し」は屋内で行う手仕事として進化した。新潟県上越市の「
雁木 」は雪から歩行者を守る生活の知恵だ。雪が降り積もる各地を取材した。
藍染めの麻布に白い糸で
江戸時代、寒冷地ゆえに綿花が育たなかった津軽地方では、綿布がとりわけ貴重なものだった。農民は木綿の着物を禁じられ、冬でも保温性の乏しい麻の着物しか身につけられなかった。その着物を補強して保温性を高めようと、農家の女性たちが糸を刺して麻布の織り目を埋めたのが、こぎん刺しの起こりとされる。吹雪が荒れ狂う津軽の長い冬は、屋内の手仕事に適した時間だった。女性たちは一針一針丁寧に、こぎんを「刺し

こぎん刺しは時代とともに姿を変えていく。布目を麻糸で一列に拾う「地刺し」から始まり、次第により手の込んだ幾何学模様が編み出された。明治期に木綿が解禁されると、麻布に白い木綿糸で刺すのが一般的に。柔らかく刺しやすい木綿糸の使用はさらなる模様の発展を促した。娘たちは村祭りで袖を通す晴れ着を、競うように自慢のこぎんで飾った。1890年代に東北線が開通すると、綿の衣類が手に入りやすくなり、急速に衰えていく。
しかし、こぎん刺しは、けっして途絶えることはなかった。なぜなら、着物の補強と保温性アップという当初の目的を超越し、すでに伝統技術として創造性を兼ね備えていたからだ。民芸運動を提唱した思想家の柳
バッグや小物入れなど、こぎん刺しの商品の製造販売を手がける「弘前こぎん研究所」の成田貞治会長(76)は「津軽の女性はデザイナー」と敬意を込める。同研究所には60~70歳代を中心に約100人の刺し手が所属し、自宅で制作にいそしんでいる。「豆こ」「花こ」など「モドコ」と呼ばれる約40種の基礎模様を巧みに組み合わせ、今も多彩な表現が生み出されている。
「無心になれる」「大切な自分の時間」――。担い手たちは、こぎんの魅力を口々に語る。成田さんは「刺すことはいつの時代も苦痛ではなく、楽しみが入っていたんだと思う。そうでなければ、これほど多くの古くて美しいこぎんが出てくるはずがない」と話した。
雪に囲まれながら、秘めたる美意識を布の上で開花させた津軽の人々。その創造力をこぎん刺しは今に伝えている。(竹内和佳子)
(2026年3月1日付 読売新聞朝刊より)
0%