日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」公式サイト
三重県指定文化財「伊勢物語図屏風」
江戸時代中期・17世紀末期頃
(斎宮歴史博物館)

2021.11.19

【大人の教養・日本美術の時間】わたしの偏愛美術手帳 vol. 16-上 榎村寛之さん(斎宮歴史博物館学芸員)

「伊勢物語図屏風」

「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!

今回お話をうかがったのは、斎宮さいくう歴史博物館(三重県明和町)の榎村寛之・学芸員です。紹介してくださるのは、「伊勢物語図屏風びょうぶ」(斎宮歴史博物館)。榎村さんの解説で、禁断の恋愛ストーリーなど、ベールに包まれた斎宮の魅力をお楽しみください。

斎宮歴史博物館の外観(同館提供)
想像をかき立てる存在

―斎王は、伊勢物語以前から日本の文学に登場していたのでしょうか。

史実上の最初の斎王とされる、大伯皇女おおくのこうじょ(天武天皇の娘)は、飛鳥時代の優れた歌人です。万葉集に収められる歌の一部は、弟との悲話を知る後世の人が彼女の思いを想像して詠んだともいわれ、斎宮というのは、古来、それほどに人々のイメージをかきたてる、ロマンチックでミステリアスな存在でした。

伊勢物語の主人公のモデルとされる在原業平ありわらのなりひらは、天皇の孫で、政治的な事情で貴族に身分を落とされたものの、高貴な存在として育てられます。そんな男性が自由奔放に生きたストーリーが、伊勢物語です。その自由奔放さの象徴が、「天皇のおきさき候補の女性との恋愛」、そして、「伊勢神宮に仕える斎王との恋愛」という、2大スキャンダルなのです。彼女たちのモデルとされるのが、清和せいわ天皇のお后候補・藤原高子ふじわらのたかいこ(のち、清和天皇の女御にょうご)と、文徳もんとく天皇の娘で斎王をつとめた恬子てんし内親王です。

江戸時代以降は、藤原高子との恋に破れた業平が江戸に下る第9段「東下り」が江戸で広く親しまれました。江戸が舞台となる平安時代の物語は、ほかにほぼなく、しかも、東海道の名所とも重なるため、非常に好まれたのです。

斎王とは?】 天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために占いで選ばれ、斎宮に住んだ未婚の女性皇族のこと。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったとき。年に3度、伊勢神宮におもむく以外は斎宮で過ごし、神に仕える身ゆえに、恋も許されなかった。斎王制度は飛鳥時代から鎌倉時代の終わり頃まで続き、伊勢物語や源氏物語にも描かれている。

斎宮歴史博物館・展示室(同館提供)
「伊勢物語」の題名の由来

とはいえ、身分的には、貴族の藤原高子より、天皇の娘である斎王の方がはるかに上です。そのため、平安時代の読者を驚かせた伊勢物語最大のスキャンダルは、斎王との恋愛だったと考えられます。それで「伊勢物語」と呼ばれるようになったのだと、私は30年来考えてきました。最近、この説がようやく定着してきたように思います。

物語の構成も、当初は今と違ったかもしれません。というのも、史上初めて「伊勢の物語」という言葉が出てくるのは源氏物語ですが、その成立から200年ほど後の歌人・藤原定家が、当時知られていた数種類の伊勢物語をもとに、決定版として鎌倉時代初期に作ったのが、今に伝わる伊勢物語なのです。

当時は、斎王との恋愛が冒頭に来るバージョンもありましたが、論争の末、偽作とされ、かろうじて、その構成の「異本伊勢物語絵巻模本」(東京国立博物館)が今に伝わっています。

運命的な出会い

―今日ご紹介いただく「伊勢物語図屏風」を初めてご覧になったのはいつですか。

1989年に斎宮歴史博物館が開館した翌年、特別展「王朝文化の美 伊勢物語の世界」の開催が決まり、伊勢物語の美術史研究家・伊藤敏子先生のご紹介で、京都の古美術商を回りました。そして、偶然にも、伊勢物語を描いた屏風を見つけたのですが、売れてしまって。その直後、別の古美術商で見せていただいたのが、この屏風です。運命的な出会いでした。

こうした、全体を覆う金雲から各場面がのぞく洛中洛外図らくちゅうらくがいのような構図の伊勢物語図屏風はたいへん珍しく、近年では、特別展「名作誕生-つながる日本美術」(2018年、東京国立博物館) にも出陳しました。

江戸時代中期の作ながら、山の濃い緑色と金箔きんぱくの組み合わせは安土桃山時代、黒ずんだ水の色は江戸初期の描き方です。また、拡大画像で業平の顔を見ると、もとの眉を残したまま、麻呂眉まろまゆと呼ばれる公家風の眉を描いていて、眉が四つもあります。こうした非常に珍しい描き方をすることで、注文主の好みに合う古風な雰囲気を演出したのかもしれません。

洛中洛外図は主に、町絵師の工房で作られていたと考えられ、この屏風もそうした工房制作だと思います。現代のアニメ映画制作にさまざまなフリーのアニメーターが参加するのと同じく、異なる流派を学んだ絵師たちが一緒に働いていたのでしょう。実際、この絵の陰影のつけ方や装束の大ぶりな描き方は狩野派、洛中洛外図的な構図は土佐派が始めて、狩野派が発展させたと言われています。

左隻の左下では、赤い衣を着た男が歩き去っていますね。伊勢物語の結末では主人公の男が亡くなりますが、この屏風ではそうした縁起の悪い場面を描いていないのです。ということは、この屏風は婚礼用で、公家の娘が大名家に嫁ぐ際に注文されたものかもしれません。右隻の一番良い位置である中央上部には、富士山が見えます。一方、左隻の中央上部は斎宮を舞台にした第69段と第71段の場面で、これらが富士山と並ぶ重要なモチーフとして描かれたことがわかります。

絵で味わう

物語は、屏風の右隻の右上から始まり、左へと進んで、左隻の左下で終わります。右隻中央の上半分は「東下り」の各場面で、富士山のほかに、三河の国の八橋で燕子花かきつばたの歌を詠む姿、そのあと、隅田川で舟に乗り、都鳥みやこどりの歌を詠む姿が描かれています。だとすると、左隻では斎宮の場面を目立つところに描いて、「あなたたち武家にとって、伊勢物語といえば、東下りのイメージでしょう。では、この場面は分かるかな?」という匂わせ方をしたのかなと。そのように、さまざまな角度から作品を考える美術史学の楽しさを、私はこの屏風から教わりました。

「伊勢物語図屏風」(左隻)の第69段「狩の使」・第71段「神の斎垣」ほか部分

その拡大図をご覧ください。女性の右側に女の子がいて、左側にはびっくりした様子の男性、そして右上に朧月おぼろづきが見えます。第69段「かり使つかい」で、朧月の夜に「斎宮なりける女」が「小さき童」を先に立たせて、都から斎宮に来ていた男のもとを突然訪れる場面です。

珍しいことに、女性側が通う話なのです。伊勢物語には「男は女に会いたくても人目が多くて行けなかった」とあるのですが、以前は、斎宮は静かな場所というイメージだったので、この記述は長らく見過ごされていました。しかし、発掘調査が進んだ今読み返すと、500人もいたわけですから、なるほど人目が多いだろうと。それで、斎宮での勝手が分かっている女のほうから訪ねたのだろうと、合点がいきます。

そのあと2人は午前0~2時頃まで一緒にいましたが、何も語り合わないうちに女が帰ってしまい、男はその夜寝つけなかったとあります。この2時間に何があったかという論争が、1000年間も続いているのですが(笑)。

―その下の場面には、鳥居と赤い塀があり、その前に女性が立っていますね。

第71段で、斎王に仕える「好きごと言える女」、つまり、恋愛が好きな女が、「神様のいらっしゃる場所なのにあなたに恋をしてしまいそう」といった内容の歌を業平に贈り、業平は「神様は別に恋愛を禁止していませんから」という歌を返します。この絵の女性がその恋愛好きな女で、赤い塀はここから内側は神聖な領域となる「神の斎垣いがき」です。

斎王に仕える女性たちまで「きゃあ、業平さま~」となっていて、業平も「イエーイ、君たちも愛してあげるよ」という感じで。第69段では斎王との純愛のように思えますが、そう一筋縄ではいかないのが業平です。「おい、ちょっと待て、業平!」と思いますけれど(笑)。

自由すぎる解釈

鎌倉時代から室町時代には、歌人や学者が伊勢物語をさまざまに解釈し、多くの注釈書が出され、この話についてもさまざまな議論が起きました。

そのひとつが、「好きごと言える女」は、本来は「すきこといえるおんな」と濁音なしで記されるため、斎王に仕えるこの女性の名前が「好子」だというものです。また、業平が斎王に贈った歌の解釈から発展して、「斎王に仕える少女の名前がよひとで、大人になって好子と名乗った」という説が生まれ、「第71段は、好子は斎王の歌を届けただけで、あくまで斎王と業平の恋文のやりとりだ」という解釈も生まれました。さらに飛躍して、「好子はのちに業平の最後の妻となり、歌人として伊勢と名乗って、業平の伝記、すなわち、伊勢物語を書いた」という説まで登場したのです。斎宮が、いかに人々の想像力を刺激するベールに包まれた存在だったか、分かりますね。

◇ ◇ ◇

榎村寛之・斎宮歴史博物館学芸員(鮫島圭代筆)

神秘的な存在ゆえに、古代から様々な物語を生み出してきた斎宮の魅力を味わっていただけたことと思います。次回は、源氏物語に登場する斎王とその世界を深掘りします。

わたしの偏愛美術手帳 vol. 16-下に続く

【榎村寛之(えむら・ひろゆき)】1959年、大阪府生まれ。大阪市立大学文学部、岡山大学大学院文学研究科前期博士課程を経て、88年、関西大学大学院文学研究科後期課程単位取得退学。現在、三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長。著書に「律令天皇制祭祀の研究」(塙書房、96年)、「伊勢斎宮と斎王―祈りをささげた皇女たち」(塙書房、2004年)、「古代の都と神々 ―怪異を吸いとる神社」(吉川弘文館、08年)、「伊勢斎宮の歴史と文化」(塙書房、09年)、「伊勢斎宮の祭祀と制度」(塙書房、10年)、「伊勢神宮と古代王権―神宮・斎宮・天皇がおりな した六百年」(筑摩書房、12年)、「斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史」(中央公論社、17年)、「律令天皇制祭祀と古代王権」(塙書房、20年)など。

鮫島圭代

プロフィール

美術ライター、翻訳家、水墨画家

鮫島圭代

学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/

Share

0%

関連記事