2021.11.16
「刀 銘 兼元(孫六兼元)」
「わたしの偏愛美術手帳」では、各地の美術館の学芸員さんたちに、とびきり好きな「推し」の日本美術をうかがいます。美術館の楽しみ方といった、興味深いお話が盛りだくさん。このシリーズを通じて、ぜひ日本美術の面白さを再発見してください!
今回お話をうかがったのは、関鍛冶伝承館(岐阜県関市)の江西奈央美・学芸員です。紹介してくださるのは、「刀 銘 兼元(孫六兼元)」(関鍛冶伝承館)。その見どころをうかがいながら、かつてない刀剣ブームの昨今、多くの人がその魅力にはまるわけを掘り下げました。
―岐阜県関市は、古くから刀作りが盛んな五つの地域の刀工流派「五箇伝」の一つ、美濃伝の中心地とうかがいました。
そうですね。五箇伝のなかでは、奈良の大和伝の歴史が最も古く、京都の山城伝では、天下五剣に数えられる三日月宗近といった名刀が知られ、岡山の備前伝は、質の良い砂鉄が採れたため、刀剣王国といわれました。鎌倉幕府のお膝元、神奈川の相州伝では、伝説の刀鍛冶・正宗が有名です。そして、五箇伝の中で最後に登場したのが、関を含む美濃伝です。
関鍛冶の歴史は、鎌倉時代に九州から関にやって来た元重に始まったとされます。南北朝時代になると、相州伝の正宗に学んだと伝わる金重が関に移り住み、室町時代には、大和から美濃の志津に移り住んだ兼氏の一門の多くが関へ移住して、美濃伝の中心地となりました。戦国時代には関の刀の抜群の切れ味が大評判となり、「関は千軒鍛冶屋が名所」(関には1000軒も鍛冶屋がある)と言われたそうです。
今日は、そんな関の刀を代表する「刀 銘 兼元(孫六兼元)」をご紹介します。作者は、室町時代の名工、二代兼元、通り名は「孫六」です。切れ味の良い刀を「業物」と呼びますが、二代兼元の刀は、その上をいく「最上大業物」といわれる抜群の切れ味で知られます。兼元作のある刀をもった人が、敵と見誤って石造りのお地蔵様を一刀両断したという逸話もあるほどです。
―最初にご覧になった時の印象はいかがでしたか?
関鍛冶伝承館に赴任してから、手に持たせていただける機会があり、すごく軽いことに驚きました。実戦用の刀でもあったのです。美しさと使いやすさの両面を備えていることで、名だたる武将に愛されたのだろうと、腑に落ちました。
そして、日本刀の最大の見どころといえば、刀全体がカーブした美しい反り、それから、刀身のうち、白くて硬い刃の部分に現れる模様、刃文です。鋼を鍛える工程、つまり、鉄を火にかざし、熱してから水につける作業を行うことで、こうした姿や模様が生まれるのです。刃文の中でも、粒子が細かく、淡い天の川のように見える部分を匂と呼び、粒子がそれよりは荒く、星のようにきらめく部分を沸と呼びます。
ご覧の刃文は特にきれいですよね。これほど幅の細い刃文をつけるのは、実はたいへん難しいのです。波線になっていて、なかでも、写真の左側の真ん中あたりは、3個ずつ突き出た模様になっています。まるで杉の木立のようなので、「三本杉」と呼ばれます。落語や講談にも「関の孫六三本杉」というフレーズがあるほど、たいへん有名です。
これは偶然生まれた模様ではなく、刀鍛冶、二代兼元が意図してつけたのだと思います。「三本杉ができる職人は今はいない」といわれるほど、大変高度な技術です。
―近年、刀剣ファンが増えていますが、強い武器に宿るこうした繊細な美しさに、多くの人が引きつけられるのでしょうか。
そういうことでしょうね。さらに、この刀身の黒い部分をよく見ると、点々の模様になっています。博物館などで刀を間近に鑑賞すると、昔の鍛冶職人が丹精込めて作った、こうした繊細な模様まで見えてきます。
刀によっては、傷がついているものもあります。この刀も、写真の左側の切っ先の近くに、縦に傷がついています。400年ほど前に作られて、現在までこの美しい姿が守り伝えられてきたわけですが、歴史上のどこかのタイミングで、この傷がついたのでしょう。もしかしたら、誰かがこの刀を実際に使い、そのときにこの傷がついたのかもしれない、と想像すると、心くすぐられるものがあります。
茎(刀身の持ち手部分)には、釘を通して柄に固定するための穴が開けられていますが、この刀には穴が四つもあります。この数から、この刀は持ち主が少なくとも4人いたことがわかります。というのも、刀は持ち主の体格に合わせて長さを変えるので、そのたびに穴を開けるのです。もともと刃の部分がもっと長かったときに開けた穴が、刀から遠い方にあり、その後、刃を短くしたときに開けた穴が、刀に近い方にあります。刀身はひとつながりの鉄なので、鍛冶職人さんが刃の一部を茎に作り替えることができるのです。
―洋服の裾上げのようですね。
そうですね。長い歴史の中で、長さを調整しながら、いろいろな人に使われてきたということが面白いですよね。この刀は、いれものに記されていた来歴から、かつて、細川家に伝来したと考えられています。刀には、不思議な来歴をたどっているものも多く、有名な武将から武将へと受け継がれた刀や、神社に納められたはずなのに、なぜか、外に放出されたものもあります。
この茎には、この刀を作った刀鍛冶、兼元のサインが彫られています。「兼」の字が「魚」の漢字に似ていますよね。これは「兼」という漢字の崩し字です。そのため、このサインがある刀は、「魚兼」とも呼ばれます。
―刀剣の世界には、そうしたかっこいい呼び名がたくさんありますが、それも多くの人が刀にはまるポイントでしょうか。
そうですね。業界用語のような感じで、まさに通の世界ですね。
兼元という刀匠の名前は代々受け継がれたので、歴史上何人もいるのですが、そのなかに「兼元」という名とともに「まこ六」とサインした人がいたことで、「孫六兼元」という通称がついたようです。とはいえ、事情は複雑で、現在「孫六兼元」と呼ばれるのは、この刀を作った1人だけですが、その人自身が「まこ六」とサインしていたかはわかりません。歴史上には「孫六兼元」と呼ばれた刀匠が複数いた可能性もあります。
―人気ゲーム「刀剣乱舞」のキャラクターのモデルになっている「歌仙兼定」も、関で作られた刀ですね。
そうですね。関の刀匠たちのルーツは奈良である場合が多く、関の刀鍛冶の名前に多い「兼」の字は、藤原氏の祖、藤原鎌足の「鎌」の字から取ったと言われます。兼元と兼定は、なかでも有名な刀匠です。「歌仙兼定」は永青文庫(東京)の所蔵ですが、その作者である室町時代の和泉守兼定(二代兼定)が作ったほかの刀が、当館にも伝わっています。なお、和泉守兼定は歴史上にもう1人います。土方歳三が持っていた刀を作った和泉守兼定は、江戸時代末期の人です。
―「刀剣乱舞」や「鬼滅の刃」のブームで、関鍛冶伝承館を訪れる刀剣ファンが多くなったそうですね。
かなり増えましたね。こうした名刀を鑑賞できるのはもちろん、館内には鍛冶場があり、毎月第1日曜日に鍛冶職人が実演を行っています。また、毎年1月2日には、打ち初め式と仕事始め式という神事を行い、1年の盛業や関係者の健康を祈願しています。
近隣にも見どころが多く、当館の隣の春日神社は、関の刀匠たちの神社です。また、当館の近くに近年できた「せきてらす」では、地下から出土した室町時代の鍛冶場の遺構を見学できます。
―関鍛冶伝承館がある場所も、かつては鍛冶場だったのでしょうか?
そうだろうと思います。掘ったら、何か出てくるかもしれません(笑)。
◇ ◇ ◇
素人にはハードルが高く感じられる、刀剣鑑賞のイロハを、江西さんにやさしく教えていただきました。細部までじっくりと見て、職人技に感嘆したり、その刀がたどってきた歴史に思いを馳せたり。楽しむポイントを再発見できた方も多いでしょう。次回は、江西さんが鍛冶に魅せられたわけ、そして、日本屈指の鍛冶職人の町、関の魅力に迫ります。
【江西奈央美(えにし・なおみ)】1988年、福岡県生まれ。愛知学院大学文学部歴史学科卒。半田市立博物館(愛知県)勤務を経て、2016年から関鍛冶伝承館勤務。
プロフィール
美術ライター、翻訳家、水墨画家
鮫島圭代
学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展の音声ガイド制作に多数携わり、美術品解説および美術展紹介の記事・コラムの執筆、展覧会図録・美術書の翻訳を手がける。著書に「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)ほか。また水墨画の個展やパフォーマンスを国内外で行い、都内とオンラインで墨絵教室を主宰。https://www.tamayosamejima.com/
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