2023年度の「紡ぐプロジェクト」修理助成事業は、奈良県から国宝「薬師如来坐像」(新薬師寺蔵)、岡山県から重要文化財「仏涅槃図」(遍明院蔵)が初めて申請されるなど7件に決まった。いずれも大切に受け継がれてきた貴重な文化財だが、仏像は劣化が進み、絵画、文書は、折れや染みなどが目立ってきている。後世へ伝えるべく、適切な修理を行うよう、素材の調査や作業方法を慎重に検討し、数年にわたる作業が始まる。紡ぐプロジェクトの修理助成事業は5年目で、対象の文化財は計34件となった。
新薬師寺の本尊で8世紀末から9世紀初めの作という。坐像でありながら像高約191.5センチと日本人の平均身長より高い。ふっくらした重量感のある姿と大きく開かれた目が、圧倒的な存在感を放つ。鎌倉時代初期の文献には、聖武天皇が目を患った時に造られたとの伝承が記され、今も眼病などの平癒を祈る人が絶えない。
頭と胴体など体幹部分を1本のカヤの木から彫り出した一木造り。手と足はカヤの木から造り、全体の木目が縦に通るように組み合わされている。このため大きな像でありながら、まるで1本の木から丸ごと彫り出したように見える。選考委員長の岩佐光晴教授は「当時は木の霊力を生かすため、1本の木材から仏像を造ることが重要と考えられていた。時代の意識を濃厚に反映した貴重なお像」と話す。
本像は1903年に修理を行って以降は、53年に台座を修理した。その後、約70年が過ぎ、特に台座は各所に虫食いがあるほか表面が欠損、陥没している箇所も多く「こんなに傷んでいるとは。修理しなければ崩れてしまう」と選考委員も驚きを隠さない。
2年をかけてまずは内部に残る可能性のある虫を薬剤で燻蒸し除去する。光背・台座の漆箔層の剥落止めや、亀裂の接合を行う。
国宝でもある新薬師寺の本堂には円形の土壇が築かれ、壇上の中央に薬師如来坐像、薬師如来の護衛のため周りを囲むように国宝の十二神将立像が配置されている。
中田定観住職(78)は「奈良県の文化財担当者から早期の修理が必要と聞き危機感を募らせていた。信仰の対象であるお薬師さんを何百年先までも、できる限り本堂の中で今の形で残したいと願っており、修理が決まり安堵している」と話した。
天台宗第5代座主となった高僧・智証大師円珍(814~891年)の出自を示した家系図や僧歴、中国(唐)への留学前後の活動にまつわる文書などで、唐の役所から発給された通行許可書の原本など、世界的に貴重な資料も含まれる。
園城寺は武家の争いに巻き込まれるなど、たびたび戦火の被害にあったが、1000年以上前の原本を数多く守り伝えてきた。
今回はこのうち、唐からの帰国にあたって作成された経典の目録「国清寺外諸寺求法惣目録」と、「三弥勒経疏(上・中・下)」の計4巻を修理する。
本紙を支える裏打ちが施され、巻物の状態になっているが、虫食いのまま補修されていない部分もある。3年がかりで、表側の墨や絵の具の剥落止めや裏側の旧補修材の除去、欠失部には新たに補修紙を補って仕立て直す予定だ。
◆ 数多くの歴史資料 継続的支援が課題
岩佐光晴・選考委員長(成城大教授)
2023年度は新たに歴史資料が加わった。歴史資料は文書、絵画や写真なども含め歴史や文化を考察する際に必要な資料。点数が多く、修理は時間をかけて継続的に行う必要があるため、費用が膨大になる。所蔵者の負担やプロジェクトによる支援などが、今後も検討課題になりそうだ。日本は文化財を大切に保護してきた伝統がある。仏像を例にとると、寺院が存続する限り伝世していく。寺院が廃寺になっても地域住民によって保護されてきた例はしばしば見られる。
文化財は人が保護する限り後世に伝えられる。逆に人によってしか護られない。適切に伝えていくために修理は欠かせない。「皆で護る」という意識が重要だ。
円山応挙(1733~95年)の作品と、門人の長沢芦雪(1754~99年)が和歌山県南部を訪れた1786~87年(天明6~7年)に描いた作品合わせて71面5隻。多数の障壁画が一括して伝わり、制作年代が明らかであるなど応挙と芦雪の画歴をたどる上できわめて貴重な作品だ。
修理は5年計画で、芦雪の襖絵「張良吹笛図」「征師図」「朝顔図」、応挙の天袋に描いた「松月図」の計14面に実施する。
「襖絵は掛け軸に直して保存するケースが多く、そのまま残っているものは貴重」(選考委員会)という。和歌山県立博物館に寄託して、保存、展示をしているが、襖のままだとどうしても傷みやすい。昭和初期以来、本格的な修理を行っていないままで、シミや虫食いが見られ、しわ、すれも多い。金具などを外して本紙を取り外した上で、クリーニングを施し、料紙の裏打ちや剥落止めを行う方針だ。
作品の数が多く、今回の修理は第一歩にすぎず、全作品の修理にはさらに長い時間と費用が必要だ。
京都を拠点に活躍した院派仏師による鎌倉時代前期の作で、ヒノキ材を用いた寄せ木造り。左手は胸の前で華瓶を持ち、垂らした右手は手のひらを正面に向けている。両肩から垂れ下がる天衣は膝の前で絡み合い、優美な曲線を描く。「院派仏師らしいみやびで調和のとれた表現」(岩佐教授)が見事だ。
1232年に宝積寺は炎上したとの記録があり、多くの信者から浄財を集めて焼失した本尊を復興したと推定されている。像内に収められていた勧進帳や奉加帳からは、仏教の大衆化を背景に同寺が京都居住者のみならず地方の有力者など広域の人々の信仰を集めていたことがうかがえる。日本の仏教史を考える上でも重要な仏像だ。
表面にカビ状の白い物質が付着しているほか、漆箔層の浮き上がりや亀裂などが見られる。光背や台座も含めほこりやちりの付着も目立つ。修理では、カビ状の物質の除去やr剥落止めなどを行う。
京都ではお盆に参詣する寺として親しまれてきた六道珍皇寺の本尊としてまつられてきた。本格的な修理は1893年以来行われておらず、漆箔の浮き上がりが進み剥落の危険がある。各所に虫食いや朽損も見られる。
1909年の重要文化財指定後は詳細な調査は行われず、従来は目視から頭部のみが平安時代前期の作で体の部分は後世の補作と考えられてきた。
今回の修理に際し像内を事前調査したところ、頭から体までを通して一材から彫り出した一木造りで、平安時代の作である可能性が高いことが分かった。非常に大きな木材から体の大部分を彫り出したことや、像内に赤色系顔料が塗られていることも明らかになった。
後世の修理で顔に施された木屎漆を可能なら取り除き周囲の漆箔となじむよう表面を補修したり、虫食いを樹脂などで穴埋めして表面層の陥没を防いだりする処置を行う。
岩佐教授は「表情など当初の姿がより鮮明になることが期待される」と話す。
釈迦涅槃の前後に起きた八つの出来事を描いた南宋の「八相涅槃図」に基づき日本で描かれた鎌倉時代中頃の地元の絵仏師の作とされる。
縦163.1センチ、横153.2センチ。涅槃の場面のほかに七つの情景を大和絵風に描き、金、赤、白、緑、青など原色を多用しているのが特徴。
1901年(明治34年)、旧国宝に指定された名品で、展覧会にたびたび出品されている。最近では2018年に龍谷ミュージアム(京都市)に展示されたが、その際修理を求める声が上がった。
1931年(昭和6年)まで3度にわたり修理した記録はあるが、近年では本格的な修理は初めてとなる。画面に横折れが走り、亀裂が拡大しているうえ、絹が浮き上がっている箇所が見られる。このため、寄託先の京都国立博物館が修理を後押しし、岡山から初の助成対象となった。
修理は2年をかけて、解体したうえで、汚れの除去、剥落止め、絹地の補修などを行い、傷みの進行を防ぐとともに作品の状態を安定させる方針だ。
京都・洛北の山間集落・八瀬に住む人々を「八瀬童子」という。比叡山延暦寺の労務を担って密接な関係を築き、1336年には、後醍醐天皇が比叡山に逃れる際に輿を担いだ功績で年貢免除などの特権を得たという。室町時代以降は、天皇が移動するときに輿を担ぐ仕事に従事し、明治時代以降には大喪や大礼の際に奉仕してきた。
八瀬童子関係資料は、年貢の免除を伝達する綸旨や公家、将軍とのつながりを示す文書類650点、装束類91点に及ぶ。寄託先の京都市歴史資料館は「後醍醐天皇から明治天皇まで25通の綸旨が残っており、同じ内容の文書を時代ごとに比較することができる。きわめて貴重な資料」とする。様々な素材からなる歴史資料の状態を精査してクリーニングや補修などを行う。
八瀬童子会の玉川勝太郎会長(81)は「歴史をつなぐためには、過去を語るものが必要で、修理できることになり安心している。若い人たちに村の誇りを受け継いでもらいたい」と話していた。
(2023年1月8日付 読売新聞朝刊より)
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