織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代に花開いた「桃山美術」は、日本美術史上、最も豪壮で華麗だったと言われる。この時代の美術を中心に、天下人の台頭、アジア・西洋とのグローバルな交易の開始など激動した室町時代末期から江戸時代初期まで100年間の背景をたどる。
室町幕府3代将軍足利義満は1401年、中国・明と正式に国交を交わした。国交を開くにあたり、義満は「日本国王」の称号を得たが、明の皇帝へ朝貢し、その返礼として品物を受け取る朝貢貿易の形だった。
明から交付された勘合という証明書を持参したことから「勘合貿易」と呼ばれる。明が
新たな民間貿易網に参入したのが、「大航海時代」の16世紀前半以降、アジアの航路を切り開いたポルトガルやスペインだった。最初に日本との関わりを深めたのはポルトガルで、中国の生糸を日本に運び、石見銀山などで取れる銀と交換する貿易を開始。特に、種子島に伝わった鉄砲は戦国大名の新しい武器として重宝され、弾薬の原料となる東南アジア産の鉛や硝石などとともに急速に普及した。
グローバルな流れに、「天下人」も機敏に反応。当時の大都市・堺では、三好長慶が海外交易を担う宗教勢力を保護し、その
1549年に布教のため来日したフランシスコ・ザビエルも、堺を「日本でもっとも富裕な港で、そこへは日本中の金や銀の大部分が集まってきている」と評した。経済の要所を押さえることが天下の奪取のため重視された。
欧州の商人や宣教師との交流は文化の融合を生み、西洋の絵画技法で描かれた「聖フランシスコ・ザビエル像」、日本伝統の漆芸でキリスト教の祭儀具を作った「
天下人の威風と、グローバル経済の活発化により、古来の美意識にとらわれない、桃山文化の気風が生まれた。狩野永徳の「唐獅子図
織田信長や豊臣秀吉に仕えた絵師・狩野永徳(1543~90年)の手による大作で、信長と秀吉が政治を執っていた時代の「桃山美術」を象徴する作品だ。力強く荒い筆致で岩間を
信長が死去した本能寺の変の後、秀吉が講和のために毛利家に贈ったとの言い伝えも残る。堂々たる作風から、天下人の時代の美術の頂点を極めた、永徳の異才ぶりを現代に伝える。
聖画を納めるために、観音開きの扉を付した薄い箱状の厨子(聖龕)。欧州に輸出されたキリスト教の祭儀具として、国内の遺品中最大かつ最高の豪華さを誇る。
来日した宣教師らの注文を受けて制作されたとみられ、蒔絵や螺鈿の技法を多用し、繊細な花鳥文が随所にあしらわれている。
(読売新聞文化部 多可政史)
2020年10月4日付読売新聞より掲載
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