2020.5.31

【橋本麻里のつれづれ日本美術】「古今伝授の太刀」の物語(前編) なぜ武士が和歌を追求したのか

国宝 太刀 「銘 豊後国行平作」 鎌倉時代 永青文庫蔵

この数年の「刀剣ブーム」で日本美術界隈かいわいを盛り上げている『刀剣乱舞─ONLINE─』については、今さら説明の必要もないだろう。新たな「刀剣男士」が発表されるたびに騒然となるが、この4月末に加わったキャラクターがモチーフにしているのは、永青文庫(東京都文京区)が所蔵する国宝の一振、「古今伝授の太刀」こと《太刀 銘 豊後国行平作》だ。

行平作の太刀は総じて細身で腰反りが高く優雅な作風。本作も鍛えは小板目に柾目まさめ交じり、地沸じにえが厚く付く。刃文は小乱れで、刃中の働きは砂流し・金筋がかかり、腰元で大きく焼落とし(刃区の際まで焼きを入れない)ている。

また行平は刀身に彫刻を施したもっとも古い刀工としても知られ、本作も佩表はきおもてに不動明王の種字「カーン」と倶利伽羅龍剣、佩裏に毘沙門天の種字「バイ」と不動明王を彫り表す。刀剣としての出来ばかりでなく、その名の由来となった物語もまた、驚きに満ちている。今回はこの刀についてご紹介しよう。

佩表
佩裏
「古今伝授」の武将 細川幽斎とは…

「古今伝授の太刀」の名は、近世細川家の祖であり戦国を生きた武将、細川幽斎(藤孝、1534〜1610)が、その波瀾はらん万丈な人生の最後に立った戦場から生まれたものだ。

放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する幽斎は、室町幕府の幕臣・三淵みつぶち晴員はるかずの次男で、母は宮中で明経道みょうぎょうどう (※1)を講じる清原家(※2)の出身。実の父を12代将軍足利義晴とする説もある。義晴の命により、晴員の兄である細川元常の養子となって細川家を継ぎ、13歳で元服。13代将軍義藤(義輝)のいみなを受けて藤孝と名乗り、義輝、義昭と将軍家に仕えるが、天正元年(1573)に義昭とたもとを分かって織田信長の臣となる。

※1 奈良時代以降、官僚の候補生である学生に対する教育と試験のために設置された大学寮において儒学を研究・教授した学科 

※2 舎人親王の血筋を称する中堅貴族で、明経道の教官職を代々世襲する。平安時代の清少納言はこの家系の出身。幽斎の母も清原家出身で、屈指の碩学(せきがく)・清原宣賢の娘であった。

武勇のみならず、能、和歌、有職故実ゆうそくこじつなどに通じた一流の文化人として知られ、特に歌道において、和歌の規範である『古今和歌集』の解釈の秘伝を相承する、「古今伝授」の継承者として尊敬を集めていた。しかしそもそもなぜ武士が和歌を、趣味やたしなみの域を超えてまで追求するのか。刀の前に、まずは和歌について考えておかなければならない。

国文学者の小川剛生氏は、『武士はなぜ歌を詠むか』(角川学芸出版、2008年)で、源氏将軍宗尊親王、足利将軍足利尊氏、太田道灌から今川、武田、北条氏ら戦国大名までを取り上げ、彼らが熱心に和歌を学んだことの意味を解いている。乱世にあって武将たる者は、戦に長け、智略を有していなければ生き抜くことは難しい。だが同じように、武士たちが生来持っていない朝廷からの官位と、文化の象徴たる和歌の力は、人心を掌握し、家臣や一門の結束をはかるための、非常に重要な教養だったのだ、と。

和歌の出発点 国家との分かちがたい結びつき

話し言葉としてのやまと言葉、書き言葉としての漢字を手に入れた上古の日本人は、日常使う言葉とは違う、神仏に祈りを届けたり、権力者を祝福したり、恋する相手を振り向かせたりする特別な言葉として、五・七の繰り返しからなる定型を備えた、和歌を生み出した。

7世紀に編まれた『万葉集』にはまず、雄略天皇が「籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくしも持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね……」と謡う、菜摘みの乙女への妻問いの歌が、その次に舒明天皇の「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば……」という国見の歌が置かれた。いずれも五穀豊穣ほうじょうや子孫繁栄を導くための、呪術的な予祝よしゅくの意味を込めた、神々の言葉に近いものとして歌われた歌だ。世界を動かすほどの力を発動する特別な言葉、それが和歌の出発点だった。

平安時代初期の延喜5年(905)、醍醐天皇の勅命によって編纂へんさんされた、初めての勅撰和歌集である『古今和歌集』は、冒頭の仮名序で、和歌の発生を天地開闢かいびゃくの時(イザナギ・イザナミの結婚)とし、天孫降臨とともに地上でも和歌が詠まれるようになったと語り起こす。起源を神々に持ち、天上での国生み=地上での国造りと関わる和歌は、国家や天皇による国土の支配と不即不離の存在なのだ。

だから天皇の命で勅撰和歌集が編まれ、天皇の代替わりの際の大嘗だいじょう会では、必ず大嘗会和歌が詠まれ、現代に至っても正月には歌会始が行われる。そこに宿るのは「力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」(『古今和歌集』仮名序)る、絶大な力であった。

和歌と国家が分かちがたく結びついている限り、宮廷=歌壇であり、その頂点に座すのは天皇、そして有力政治家=歌人として、政界と歌壇が同心円を描くように重なり合って存在していた。それゆえに、天皇や貴族が主催者となって催される歌合(※3)も、単なる文学的遊戯には終わらず、不名誉が死に繋がるほどの重大事と見なされた。

※3 歌の作者を左右に分け、その詠んだ歌を各一首ずつ組み合わせて、判者が批評、優劣を比較して勝負を判定した。

では彼ら貴族が力を失い、実力本位の武士たちが台頭してくると、和歌は顧みられなくなったのだろうか。

武士たちもまた、歌を詠んだ。『吾妻鏡』は平家が壇ノ浦に沈んだ翌年の1186年、鶴岡八幡宮に参詣した西行に、源頼朝が歌道のことや弓馬のことを熱心に尋ねたと記している。新たな為政者として、武力だけでなく、権威を帯びなければならなかった頼朝もまた、国家やその支配と結びついた和歌の力を必要としていたのだ。

国宝 太刀 「銘 豊後国行平作」 鎌倉時代 永青文庫蔵 拵

他方、貴族たちに権威はあれども実権がない。この時代に生をけた後鳥羽院が、政治の主導権を取り戻そうという野心とまれな歌才とを共に持ち、同時代に不世出の天才歌人、藤原定家が登場するという天の配剤には驚くほかない。失われた王朝文化、王権を回復しようという志向は、和歌にもルネサンス的な復興の気運を注ぎ込み、後鳥羽院の勅命によって『新古今和歌集』が編まれた。この時撰者の一人を務めたのが、定家である。

また「新古今」の時代に確立した歌の技法に、本歌取りがある。誰もが知っている古歌を踏まえて新しい歌を詠み、それによって古い歌をも再生する技法で、やはり歌人として重きをなした定家の父、藤原俊成が完成させた。これも古き良き時代を、文化の上でも政治の上でも復活させようという時代の流れと、軌を一にしている。

和歌はいかにあるべきか

冒頭書いたとおり、初めての勅撰和歌集である『古今和歌集』は、和歌の規範として重んじられたが、これには「歌学」「歌道」の成立が深く関わっている。当初は「唯一の高度な宮廷文芸」であった漢詩文の文章道もんじょうどうに対し、それに匹敵する和歌やまとうたの創作と、和歌に関する学問を追求する学芸を、「歌道(うたのみち/かどう)」と呼ぶようになる。

「歌人」を家職とする家系が生まれたのは、平安時代中期頃のこと。平安時代末期に入ると、宮廷社会における技芸としての和歌が重んじられるようになり、技術と理念との両面から、和歌はいかにあるべきかが追求された。そのための知識と、それらを学習するための体系だったシステムが、それぞれの和歌の家で整備され、歌道と呼ばれるようになっていく。

これを継承するのが六条源家ろくじょうげんけ、六条藤家とうけ、中でもよく知られるのが、藤原俊成―定家―為家以下、現代まで続く御子左みこひだり家だ。為家の子の代に二条家(血統は南北朝期に絶える)と冷泉家とに分かれ、歌界に大きな影響を与えた。幽斎が学んだのも、室町時代にいまだ歌道の主流であり続けた、二条流であったという。

秘伝化する歌道

印刷が普及する以前には、『古今和歌集』であれ『源氏物語』であれ、それを手元に置きたければ、写本をつくるしかない。しかし数百年を写し継がれていく間に、間違いが紛れ込み、あるいはあるべきものが脱落して、本来の正しい姿を失っている可能性もある。歌道の家は弟子に対して、由緒正しい本文を伝え、他のよりどころとなる「証本」を授受し、これを教科書として訓読解釈の講義を行ったのだ。この歌学の体系の最奥に位置していたのが「古今伝授(「伝受」の表記もあり)」である。

古今伝授、という意識が生まれたのは院政期の頃とされ、当初は『古今和歌集』20巻の証本の授受と、その講釈が全てだったようだ。だが歌学の世界に複数の流派が分立し、自家の歌学の正統性と権威化を競うようになれば、それは自ずと秘伝化へと向かう。講釈の補助として、核心部分を記して弟子へ伝えられていた口伝くでん切紙きりかみ(免状)、抄物しょうもつ(解説のための書物)は、室町期に入ると講釈との関係が逆転し、儀礼的な側面が強くなっていく。このように形式を整えたのが、室町時代前期の武家歌人、とうの常縁つねより(生没年不詳)だ。

常縁は二条流の堯孝ぎょうこう(※4)に師事し、堯孝から伝えられた二条常光院流の古今伝授に、自家のアレンジを加えて、連歌師の宗祇そうぎ(1421―1502)へ伝授した。宗祇からは牡丹花ぼたんか肖柏しょうはく三条西さんじょうにし実隆さねたか姉小路あねがこうじ済継なりつぐ近衛このえ尚通ひさみちに伝えられ、ここで4流に分かれた。

※4 室町前期の歌人。歌僧頓阿(とんあ)の孫堯尋(ぎょうじん)の子。広く公武僧の歌人と交わり、温雅で伝統的な歌風を主張した二条派の代表的な歌人(二条常光院流)で、室町時代の最後の勅撰和歌集『新続古今和歌集』の選進にあたっては、和歌所開闔(かいこう、事務主事)として、撰者の飛鳥井雅世(あすかいまさよ)を助けた。

肖柏の流れはさらに堺伝授、薩摩伝授と称される2派に分かれる。ともあれ主流となったのは三条西実隆に伝えられた流れで、三条西家から細川幽斎、八条宮智仁親王を経て後水尾天皇、さらに歴代天皇、上層公家に伝えられ、「御所伝授」として江戸時代を通して受け継がれた。

戦乱の世、幽斎による「古今伝授」と、その名を持つ刀のドラマは後編で紹介します。

橋本麻里

プロフィール

ライター、エディター。公益財団法人永青文庫副館長。

橋本麻里

新聞、雑誌への寄稿のほか、NHKの美術番組を中心に、日本美術を楽しく、わかりやすく解説。著書に「美術でたどる日本の歴史」全3巻(汐文社)、「京都で日本美術をみる[京都国立博物館]」(集英社クリエイティブ)、「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」(新潮社)、共著に「SHUNGART」「北斎原寸美術館 100% Hokusai !」(共に小学館)、編著に「日本美術全集」第20巻(小学館)ほか多数。

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